文化レベルって本当に上がっている? もしかして

今年一年最大の発見。

「市場原理主義による文化レベルの下方硬直性」

について。
研究期間のレポートみたいですが、「テレビの字幕」レベルの
話しですのでお気楽に。

書評としてリリーフランキーさんの「東京タワー」を取り上げま
したが、面白い「表現」とは理解しましたし、「上手い」というのが
読後感として残りました。 が、もて囃し礼賛するところはどこも
「感じ」ませんでした。

もちろんこれは「感性」ですので、十人十色の話しですが、

「誰にでも分かりやすい」

という巧みさは感嘆しました。

そして昨今の日本映画界ではみうらじゅんさんがいう

「お涙恐喝映画」

旋風が吹き荒れています。
韓流が火付け役かも知れませんが、殆どが

「死人ストーリー」

だったり、

「古き良きノスタルジー」

だったりと同じ話しです。
正直、キャスティングを見ただけで

「こいつ死ぬな」

と。

しかし・・・これが分かりやすいのです。

「恋人や大切な人が死ぬから悲しい」

という方程式ができあがっています。

・・・そりゃぁ悲しいわな。

ただ私には斉藤由貴さんのデビューシングル「卒業」の

「卒業式で泣かないと冷たい人といわれそう」

的な浅薄な感情の強制にしか感じません。

「恋人が死んで悲しい」

これが変わることはないでしょうが、

「恋人が死んで人目も憚らずに号泣」

はどうでしょう?
昔の映画は押し殺した涙「嗚咽が漏れる」ことにより、その場面
をより悲しく含みを持たせるものもありましたが、今や絶滅危惧種
に指定されています。

どんどんと「わかりやすい」に流れている証左ではないでしょうか。

本も昔は何度も読み返すのは普通でした。

しかし、今「ベストセラー」になる多くは

「サラッと読めて感動した(理解できた)」

といわれるものです。新書ブームもこれに乗りました。

何度も咀嚼して深く理解されるモノよりも

「何となくわかった気がする」

という仕掛です。

太古の昭和時代は本は知を与えてくれるツールで、知の偏差値
レベルでいうとちょうど中間の偏差値50より、少し上の知識を
与えていました。

専門書や学術書は偏差値70以上のハイレベルで、理解できる
人は極わずかですが、解説書やハウツーモノなどレベルを下げて
いくといった具合です。

カッパやゴマブックスは偏差値50前後といったところでしょう
か。もっと低いかも知れませんが、中学1年生の私には、知識の
扉を大きく開いてくれたました。

読書偏差値50の人が50の本を読みます。

これはその人の能力をフルに活用すれば全てを理解できると
いう状態です。

同じ人が偏差値45の本を読んだとします。
今度は9割の力で理解することができます。
更に偏差値40なら8割で大丈夫です。

そして今、

「自分だけはちょっと特別」

と思う人が増えました。自分探しブームはこの表れです。

特別な自分に理解できないというのは軽い屈辱です。

そこに肩の力を抜いても理解できる偏差値40の本が、最新情報
を装った表紙で語りかけます。

「特別なあなたに読んで欲しい」

全能力を傾けなくても理解できる本は手軽に自尊心と知識欲求を
満たしてくれます。

市場原理主義が蔓延している昨今、出版社も

「知識偏差値の高い売れない本」

など、だしている場合ではなく

「売れやすい本」

を求めるのは当然ことです。
すると、この偏差値が下がる方向(ベクトル)で固まってしまいます。

これが「下方硬直性」で、小難しい本は自尊心が傷つけられるので、
排除し、時には「書評ブログ」で「攻撃」します。

自分の理解できない世界の排除が進みます。
下方は加速しいきます。

「テレビ番組のテロップ」

も同じです。

ギャグや発言に時には「傍点」をふってまで「強調」して、

「誰にでも分かるレベル」

にまで下げています。
ニュース番組も同様で「基礎知識」がなければ分からない経済解説
もテロップを入れることにより、その単語を眺めた視聴者が

「なんとなく知った気になる」

効果を利用しています。
一般的に8割近くの情報を視覚から得ているといわれているので、
じっくり話しを聞くよりも

「チラみ」

でも文字情報のほうがその気にさせるのです。
本質的な理解とは別次元の話しですが。

もちろんこれも「視聴率のため」。
視聴率至上主義は市場原理主義と双子の兄弟といっても良いほど
同じ性質を孕んでいます。何をやっても稼ぐが勝ち。誰かを思い出
します。

インターネットですべての情報が得られると信じている人も多い
昨今ですが、そこで流通している情報もこの下方硬直の罠から逃れ
ることができない・・・というよりはネットからの情報収集はまさ
しく下方硬直が猛スピードで進む世界です。

何せ

「これからの消費行動には検索が必須となる」

なんてタワゴトが流布されていますが、検索は昔からあった話です。
具体的に欲しいモノがあれば何件も店を廻り、珍書貴書などは
神保町を何件も廻ったり、厨房機器ならカッパ橋といった具合です。

ただそれがパソコンの中で出来るようになったというだけのこと。
まぁマーケティング屋さんやコンサルの儲けの種です。

そして「検索」という行為は

「自分の知っている情報しか探せない」

のです。そこに

「自分は特別」

という先に紹介した「俺様主義」を振りかけると

「検索結果も自分の知っている情報しか信用しない」

となります。
更にはそれすらも面倒となると

「俺様が信用しているブロガー様の情報を盲信する」

となります。

一旦「下方」にベクトルが動くと、修正するのは至難の業で社会
は不可避な未来の絶望へと導かれることでしょう・・・と煽りはし
ませんが、来週誕生日を迎えるに当たり、今年一年で最大の発見を
記しておく必要があるかと。

一言でいうと

「文化レベルって本当に上がっている? もしかして」

という疑問です。
中国の「道」の哲学や孔子に孟子、そしてソクラテスの時代から
語り継がれている「知」を、果たして現代は超えることができてい
るのか。

悲観論で煽るのではなく「どうなの?」という率直な疑問から
スタートしたときに、市場原理主義と噛み合った結果、現代に流通
する知が下方硬直しているのではという発見です。

次回以降よりいつもの時事ネタを。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください