名こそ惜しめ。そして貴様、名を名乗れ

私の通った小学校では月曜日といえば道徳の時間でした。
休み明けの一時間目に聞かされる説教は、我が家にとっては
常識以前のことばかりで、なかにはぬるいものも多く、

「先生、ウチに来てお父さんに教えてくれないかな」

と呟いたものです。ウチよりぬるかったので。

我が家の教育方針は随所に「ご都合主義」が散見していました
が、嫡男である私にだけは戦前の教育が徹底されました。

個人主義を戒め、公への奉仕を大切にする。
四文字熟語でいうと「滅私奉公」。

学校で教わる個人主義と、一学年上の姉の奔放な振る舞いとの
軋轢に悩みながらもそれが我が家のルールでした。

姉の奔放な振る舞いを父に「申告」しようものなら大変です。

「告げ口するな」

密告はオトコとしてやってはならない行為でした。
姉の密告はOK。男女差別です。
我が家では男子は不利な生き物でした。

そして、どうしても姉が間違ったことをしているなら

「お姉ちゃんのいる前でお父さんに言え」

つまり、密告ではなく告発ならOK。小学生の男女では総じて
女子の方が身体大きく、また男勝りの一学年上の姉です。
とっくみあいをすると十戦十敗の私にとって、告発はその後の
報復を覚悟しなければならない行為でした。

が、しかし。
子供というのは経済合理性だけで動くものではなく、長らく洗脳
された「正義」という言葉の前に何度も勝てない戦いに赴いたもの
です。

もちろん、その逆の私の卑怯な振る舞いや、情けない出来事は
全て父に伝わっておりました。

この時私に「抗弁権」はありません。
男の子は言い訳を許されないのです。

亡父の法典によると言い訳とは男子にとってもっとも恥ずかしい
行為で、自らの行いを否定することとなります。

どんな形でも自らの行いには責任を持たねばならず、それは

「名を汚す行為」

だといいます。
とはいえ、親のいうことなど十中八九聞いておらず、欲目に見て
も2割ぐらいしか守れなかったのですが、この「名前」については
行動指針となりました。理由は後ほど。

「名を捨て実を取る」

私が子供の頃、苦渋の選択を迫られどうしようもなくなったときの
最悪の中の最善として「汚名」を覚悟する行動という意味で流通して
いました。

だからかぶった汚名に対してわずかの同情を除けば、非難は大きく、
誉められた行動ではありませんでした。

名前を捨てたリーダーは詰め腹を切ります。
それだけ「名」は大切だったのです。

平成の時代になると「名」は平気で捨てられるものになりました。
部落差別に人権、家系などの

「人は生まれながらにして平等である」

的な運動と重なったのでしょうが、生まれながらの平等と生まれ
た環境の平等は別次元の話しなのですが、背景に「マルクス的共産主義」
の闊歩=あの組合の影がちらつきます。

戦後教育の洗礼を受けた世代が親となり、その子供達が社会に出始
めたときに「名」は個人を識別する記号でしかなくなりました。

モンスターペアレンツ、クレーム親、給食費・保育料の滞納。

識者の最近の「トレンド」は、

「地域社会との接点がなくなり、親自身の不満のはけ口となっている」

です・・・が、同級生の親同士ではちゃんとコミュニケーションが
とれている場合も少なくないので厄介なのです。

時には地域や学年の「裏番」だったりします。
そして時には自らの「クレームのよる戦果」を自慢します。
ゴネドクは一つの権利となりました。

親同士のクレームも学校に持ち込みます。
自分の力で解決できない「不満」を他者に委ねようとします。
それも答えは自分の望む形だけで。

名は個人を識別する記号に過ぎませんから、名前を汚すという概念
がないのです。
だから自分さえよければよいのです。
子供のためと枕詞があっても、殆どが「自分のため」なのです。

自分のファッションアイテムとしての子供という位置づけであったり、
自分の遊興費を削られたくないための強弁だったりと。

ライブドアが社名を創業時の(オン・ザ・)エッジから変えたとき
非難されましたが、一方、

「より有名な企業の名前に変える合理性」

を持ち上げる声も少なくありませんでした。

小泉首相時代の靖国参拝で経団連のお偉方が

「中国との経済実態を考慮して行動して欲しい」

といった批判をしました。
日本国よりも金儲けの方が大事だという吐露です。

グッドウィルもホリエモン氏もはいっていた団体ですので、
いわずもがなですが。

領土問題でも名を捨て実を取れと、露西亜、韓国、中国相手に
のたまうかたがたがいます。

中国が丹頂鶴の英名を変えさせよう、アメリカが硫黄島(いおう
とう)をイオウジマにしようと、そして韓国が日本海を東海とさせ
ようとしているのは

「名が持つ意味」

を熟知しているからです。
名とは存在を識別する記号・・・だけではなく、その由来が
必ず存在し、その由来は歴史でありアジアの近隣諸国風に記すなら

「民族の誇り」

に通じるからです。
硫黄島は日米戦争の戦勝モニュメントで、イエローモンキーを
駆逐した歴史ですし、日本海を東海にすることで、韓国は自国の
海を手に入れます。

日本海は韓国にとっては「東」ですが、日本にとっては西で
露西亜にとっては「南」なのです。だから国際的に「東海」と
なれば世界地図に「民族の海」が誕生するというわけです。

中国の場合は・・・ちょっと違い

「最初から丹頂鶴の英名は中国人が決めた」

と正史を書き換えることでしょう。

名を捨てて平気な国家も民族もありません。
悲しい話し、我が国を除けば。

我が家の教育の話しに戻ります。

「名こそ惜しめ」

私が恥ずかしい行動をとると言うことは、生み育てた父母、
姉妹、また祖父母に親戚、全ての関係者の顔に泥を塗る行為だ
と言われました。

個人主義にシンパシーを覚えていましたが、自分の行動で
誰かが恥をかくのは好ましくありません。

私は自分自身が好きですが、であるいじょう、他人も同じように
考えているはずで、ならば迷惑をかけるわけにはいきません。

また、ある時、自分が好きになった女の子にも話しが及びます。

「お前が恥ずかしい振る舞いをすると、そんな恥ずかしいお前に
惚れられた女の子がイヤな思いをする」

これにはガツンと来ました。
人を好きになるという行為は自分だけのものかと思っていました
が、当たり前の話し相手にも影響するのです。

「あんな恥ずかしい男に惚れられた女」

ぞっとします。

地域社会との接点をもっていても名を捨てた人にとっては関係の
ないことです。

学校や幼稚園というのは一時の通過点で、自分しか世の中に存在
しないのですから、

「(人生という)旅の恥はかきすて」

なのです。
経済活動で破廉恥な振る舞いをしても、儲かれば経団連に入れ
るのも通底しているのではないでしょうか。

名とは出自来歴も表しますが、同時に連なる人への責任と愛情も
意味するもの・・・という意味でも「名こそ惜しめ」なのです。

「貴様、名を名乗れ」

も、識別記号ではなく連なる全てを公表することにより覚悟を
測っていたのです。

ネットの匿名社会ですが「名」こそ社会の基盤です。

人は野山から生えてくるものではなく、誰かの子供として
生を受け、それが連なり歴史が生まれ、村があり町となり、
国となるのです。誰かと誰かのつながりで生まれるのが名です。

名字がない時代でも「屋号」があったのも、その方が都合が
良い生活の知恵だったのです。

そして、名とは歴史の始まり。
大化改新は分からなくてもお爺ちゃんの偉業は知っているものです。

「欧米か」では、いまだに「Jr」という名前がありますよね。
あそこの国の大統領はパパと同姓同名です。

周辺諸国の日本に関する名前の「過干渉」にいらつきながらも、
これが足りないんだよなぁと。

・・・ちなみに冒頭で「ご都合主義」と記し、「言えないこと」
で何度も触れていますが、我が家の教育はそれほど立派なものでも
なく

「人生が不条理だということは我が家のちゃぶ台で学んだ」

ものです。
ただ、その中で

「自分ができなくてもそうなって欲しい理想で子供を叱って貰った」

ことは後年になって大変感謝しております。
惜しむらくは冷や酒と同じで、相当後になってから分かりましたが。

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