霞ヶ関の眼下に広がる世界

月末です。
ヒトモノカネが動きます。

明日からは「早いもので今年もあと2ヶ月」という言葉の特売が
行われるんでしょうね。

さて、ヒトモノカネを串刺しにして置き換えるとすると「情報」
となります。人材やキャラクター、品質に機能、価格に価値といっ
たようにです。

戦争でも経済でも恋愛でも「情報」は勝敗を左右する要素で、
敵軍の兵站が不足していれば持久戦で音を上げるのをまったり、
大株主の創業家の不満を察知してTOBを欠けたり、意中の相手の
好みに合わせたレストランを選んだりできます。

いま、準備しているウェブ担当者フォーラムの記事にもまとめ
ているのですが、インターネットによって情報を集めやすくなった
という事実は認めますが、一方で、その中身が薄くなっていること
はあまり注目されません。

これにはいくつかの理由が考えられます。

1)見出しで「結果」を記憶するだけ

事実は一つでも過程と結果によって意味合いは異なります。
先日も取り上げた「トルコ議会やっちゃうよと決議」にしても
道筋を理解していないと、

「中東や世界を不安定にさせるトルコ」

という印象になりますが、水を向けたのは米国です。
しかし、「知ったつもり」を満たすだけならネットニュースの
見出しで事足りてしまうのです。

続いての理由が

2)人が受け入れる情報量の限界

人間に無限の可能性というファンタジーを求めるのも結構ですが
次の理由とも重なるのですが、視野に入る情報量には自ずと限界が
あり、瞬時にブラジルのブロガーが綴ったカーニバルの熱狂をみる
ことができたとしても、同時に赤の広場でコサックダンスを踊る
若者が躓いた理由を知ることはできないからです。
また、常に「速報」に触れる環境にいると麻痺します。

悲しい例えを持ち出しますが、

「バラバラ殺人」

と聞いて背筋が凍る恐怖を覚えるでしょうか。
昭和の時代は「普通の殺人事件」だけで1週間以上ワイドショー
が騒いでいたことを思い出します。

情報に触れ続けることで、無意識のうちに取捨選択し、表層的な
派手な事件を記号として認識してしまっているのではないかという
ことです。

3)テキスト芸でしかない

動画共有サイトを持ちだして「映像も音声もある」ということ
はこの指摘の本質ではありません。

動画で見て音声で聞いても本質的な「経験」とは成り得ない
ということです。

もちろん、空手経験者が有段者の演舞を「ユーチューブ」で見て、
その技に触れることはできますが、それは自身の体に刻まれた経験
が下地にあってのことです。

料理本を見ても上手く作れないという人に未経験者が多く、レシ
ピを見ただけでさっとつくれる人は経験によります。砂糖を先に入
れた方がしみこみやすいや、白菜からは水分がでるから仕上がりを
予想して調味料を調整したりというものは経験からしか身につきま
せん。

ところがネットの中では偉人にも賢者にも聖人にも名工にだって
なれちゃいます。

匿名ブログで何者かになればOKです。経験がなくても経験者の
ブログから引用すればその気を演出するのは簡単です。
それはまるでスポーツ紙からの「引用」を自分の取材のように
語る芸能リポーターの前田忠明氏のように。

・・・もっとも情報の「薄さ」はネットから始まったものでは
なく、フジテレビが仕掛けた「楽しくなければテレビじゃない」の
軽佻浮薄路線がバブル経済へと向かった時代と重なり、他局追随を
生み出したあたりから顕著になったとみています。

そこに明治維新からの「テクノユートピア」の系譜として、
とネットが登場して、テレビの暴走を受け継いだという見立てです。

軽くても良い。知ってるつもりでよい。
新書ブームもこの流れにあります。

情報の軽量化、薄型化が進行して、足を止めて深く考えを巡らす
ことは歓迎されなくなりつつあります。

一方、時には息を潜め、時には恫喝し、ヒトモノカネを呼び寄せ
て深く静かに大胆に自分たちのやりたい放題をしている人たちがい
ます。

彼らは情報をコントロールします。
陰謀史観のそれとは違う意味で、メディアに規制をかけ、時には
喜ぶネタを提供して懐柔し、企業にも規制と助成で揺さぶりをかけ
ます。

一般庶民などは税と減税の使い分けでイチコロです。

そう、彼らの正体は「官僚」。浅薄な官僚批判ではありません。

何代にもわたり築き上げられた彼らの「情報管理術」の巧みさを
知るべきだということです。

例えば有楽町、銀座エリアの再開発。

サンシャインの池袋、新都心新宿に渋谷・原宿に六本木と、
文化の拠点は拡散していきました。バブル期にとある筋から聞いた
話ですが、「銀座以外の盛り上がり」を歯がみして悔しがっていた
と言います。高級官僚が。

渋谷原宿などは「若者」だからと相手にしていなかったものが、
日本中から、そして世界からも注目されるにいたって、銀座をさ
しおいてという怒りです。

都庁も以前は丸の内、現在の国際フォーラムにありましたが、
新宿に引っ越してからはお上の意思が通じにくくなり、そこに
慎太郎都知事登場で、もう悔しいっ! てな感じです。

そこで霞ヶ関のお膝元の「再開発」をと。
霞ヶ関の庭である丸の内はビジネス街に、銀座は商業地として。

「都市集中」を懸念するなら日本一の繁華街「銀座」の開発を
規制すればよいのに、次々と認めたのは何故でしょう。

同じく老朽化を理由にオフィスビルを立て替えるのであれば、
高層化を認めない規制をかけるべきです。低層により、賃料が
上がりますが、見合わないビジネスは見合う場所を探して、その
地域経済を潤すことができ、集中を排除できます。

メディアは盛り上がります。新しい物好きの習性に加えて、
許認可を握るお役人様が喜ぶことを知っているからです。

さて、これのどこが「情報管理術」か。

情報とはヒトモノカネが集まるところに引き寄せられます。
最初に触れたように存在自体が情報であり、それらを欲する
人たちが欲する理由という情報を持ち込むのです。

そして丸の内、銀座エリア・・・つまり、官僚のもとに情報が
吸い寄せられるようになるという算段です。

安全性の問題から都心部での運行が認められなかった、

「オープンバス(2階建てバスの2階部分の屋根がないバス)」

が皇居周辺と銀座を周遊したのは偶然でしょうか。
ビジットジャパンという観光客誘致の目玉の一つで、いくつか
の会社が入ることで分かりづらくなっていますが、元を辿ると
国策企業の陰がちらつきます。

逆に自分たちのもとに来ない情報を怖れます。

日本一の繁華街、大銀座の話の後は足立区の話。

足立区の大動脈は東武伊勢崎線(以下、東武線)で南北に
走ります。

一部を除けば区内を運行するバスは東武線の各駅が始発着と
なります。区内の移動は東武線が基準となります。

都心に行くのはこれで事足ります。
足立区東部には「つくばエキスプレス」が走り、足立区の
最南端北千住から、東部をかすめて南北にぬけ、秋葉原への
アクセスが便利になりました。来年の3月には足立区西部を
これまた南北に「日暮里・舎人ライナー」が走ります。

都心へのアクセスは格段に良くなります。

・・・が、区内の移動はあいかわらず不便です。

最寄り駅の竹の塚駅西口まではバスがあります。
しかし、東口から1キロちょっといった先ある「元淵江公園」
に行くには、一旦バスを降り、駅構内を抜けて別のバスに
乗り換えなければなりません。

区民の足は皮肉にも大動脈東武線で分断されているのです。

足立区には東武線というベルリンの壁があるように分断されて
おり、壁の向こう側に行くより都心に出る方が手軽です。

東京23区を時計盤に置き換え、針の回転軸を丸の内、
足立区を12時とすると江戸川区は3時位に位置します。

こちらはJRも地下鉄も走りますが、足立区の南北に対して
東西に走ります。

全ての道は丸の内に通じます。そこから霞ヶ関へ。

ヒトモノカネの流れを霞ヶ関から見下ろします。

都市計画から「情報」を管理しているのです。

交通網については都心の求心力と区内の需要からという説明
に一定の説得力を見いだすことは簡単です。

江戸川区では南北に走るバスを導入しました。
東西に延びる鉄道各駅間の輸送と区内移動の利便性を高める
試験としてです。

利用者が多く増便で対応することを決定しました。

つまり、丸の内に行かなくてもよいという「市場」がある
ということです。

そして「地方分権」が叫ばれる昨今、これは官僚にとって
許し難い事実でしょう。

地方で完結する経済圏ができあがってしまうことで、情報が
入らなくなるからです。

この江戸川区の取り組みは注目に値します。
また、官僚の対応も。

「イトシア」や「プランタン」、「エキュート」などなど。

霞ヶ関の眼下に広がる夜景を見ながらブランデーグラスを
回している・・・イメージが貧困ですが、官僚を情報という
切り口から見ると非常に巧みで、その能力を何故

「外交」

に活かせないのかと首をひねるばかりです。

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