ツチヤの貧格

 古代ローマを語る際に欠かせない登場人物がカエサル(ジュリア
スシーザー)ではないでしょうか。私としてはハンニバルと彼を
打ち破ったスキピオ・アフリカヌスのエピソードの方が楽しいので
すが「ローマ人の物語」の著書、塩野七生さんは彼に恋していると
公言するほど魅力的だといいます。

その魅力は軍事、政治に秀でているだけではなく、文筆家として
もオバマ大統領など消し飛ぶほどのスピーチのうまさで魅了します。

一例を挙げればとある部隊が「労働争議」のような状態にはいっ
た際に、通常ならば「戦士諸君」とともに視線をくぐってきた兵士
に語るカエサルは、彼らの前に立ち「市民諸君」として、要求は
分かったからしばらく待って欲しいとお願いしました。これで一気に
労働争議は腰砕けとなったといいます。

現代日本ではピンと来ませんが、カエサルの仲間だという意味を
含んだ「戦士諸君」と「市民」には雲泥の違いがあり、それは
報酬や待遇という以前にひとつの共同体としての連帯であり、
運命をともにする家族だったはずの自分たちが、その「わがまま」
によりカエサルに「捨てられた」という失望感が後悔を誘うのに
時間を要さなかったのです。

現代日本ならば「市民でいいじゃん」となるのでしょうが。

古代ローマでは弁舌、表現のために修辞法を学んだと言います。
カエサルはその名手で集団に対しての名称ひとつで翻意を促した
ということです。

そして「ツチヤの貧格」。

土屋教授はお茶の水女子大学で哲学を教えているそうです。
彼のエッセイはレトリックにあふれています。いや、レトリック
の間に接続詞があるといった方が正しいかもしれません。

そのレトリックは故国ローマのために闘う戦士に向けられるの
ではなく、自身の存在を臆面もなく守護するためのものであり、
まるでミニチュアダックスフントの遠吠えのように実行力に
疑問が浮かぶもの対岸の火事としてその無意味さに微苦笑を
誘うものです。

自分の努力不足も注意力の散漫さも考え得る可能な限りに
おいて「他人のせい」として自己を擁護します。そしてその
狼の子孫としてのDNAをコインロッカーに預けたような座敷犬
のような弱々しい雄叫びで

「社会よ。俺に優しく」

と吠えた刹那、視線を逸らします。
但し、据える性根をなくしたその文章の射る先は、芸能人
水泳大会でプールに浮かべたマットを渡るように足下が定まらず、
多くの場合、土屋教授の足の甲に突き刺さり痛がります。

平たく言えば面白いのです。
先日、資料を整理していてでていた「週刊文春」で・・
この雑誌もときどき買っていたのですが・・・はじめてみつけた
連載を読み、アマゾンで即日注文して翌日読了しました。

カエサルのレトリックをオペラとするなら、土屋教授のそれは
サザエさんの登場人物「ノリスケ」のような軽薄さと調子の良さに
溢れており好きです。

■ツチヤの貧格
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4163709304

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