普通、しらないよね

 20年前の20世紀、私が社会人になりたてのころの話です。

エレベーターを降りようとすると、いわゆる「おばちゃん」の
一団が降りる私たちを待たずに乗り込んできました。肩もカバンも
「横腹の肉」も当たるほどです。

ウブな私は先輩社員に憤慨して尋ねました。

「いい年齢した大人が降りる人が先だってルールも知らないなんて」

すると師匠のひとりがこういいました。

「しょうがないだろ、おばちゃんだから」

えぇ、田嶋陽子先生が猛り狂いそうな話がしばし続きますが、
師匠の談話を記憶の限り忠実に再現します。

私 「おばちゃんだから?」
師匠「社会経験が少ないから自分のことしか考えないんだよ」

私 「ふ〜ん」
師匠「××さん(女性の先輩社員)はあんなことしないだろ?
彼女は社会(生活)をしっているからだよ」

私 「でも普通の生活も社会じゃないですか」
師匠「違う文化だということ。自分を中心として半径のことだけ
考えればいい人と、会社や組織という半径を意識して
生活する違いかな」

私 「でも(繁華街を見渡して)これだけ人がいれば、私が
▲▲の社員だなんて分からないですよ」
師匠「若いなぁ。世の中って意外と狭くて誰が見ているか
分からないんだよ」

私 「そんなもんですか」
師匠「自分のことだけ考えていると結局、自分が損するんだよ」

私 「なるほど。じゃあ今後、女性の社会進出が進めばああいう
おばちゃんはいなくなりますね」
師匠「・・・多分な」

そして最近、師匠の予言のハズレを確信しつつあります。
それはおばさんが変わらなかったことではありません。

「社会がおばさん化している」

ということです。つまり社会生活のルールがおばちゃん化し、
自分の半径だけで生活することが「普通」となっているということ
です。

いや、むしろ「おばちゃん化」という表現が正しくないですね。

「個人自由至上主義」

というところでしょうか。

個人の権利と自由は最上の価値で犯すべからず神聖なるものだ
ということ。自分が乗りたいのだから乗る。降りる人のことを考
える意味が分からない。

故尾崎豊さんの楽曲の中のひとつのテーマに

「群衆の中の孤独」

があると私は感じています。思春期に誰もが通過する葛藤で
心理学的なアプローチで語るなら

「自分と他人の明確な区分」

で、それまで家族という区分の曖昧な共同体から、集団生活の
中で己の異質に気がつき、別の発露としては自己欲求の実現が
必ずしも満たされない・・・もっと平易な言葉を用いれば

「好きなあの子が振り向いてくれない」

時に、他人という存在を強く意識することで自我に目覚める
ということです。

絶対的な自分と相対的な自分との折り合いで、ひとことで言えば

「思春期」

なわけですが、個人自由至上主義が自己が社会と向き合う
手がかりをなくしたように考えるのです。

つまり社会では「思い通りにならないこと」は当たり前に起こ
るのですが、それが個人の自由を侵害することであれば、侵害す
るほうが悪いのであって自分は悪くないと。エレベータに乗りた
い自由を制限するほうが間違っているのだと。

携帯電話の普及も重なります。

携帯電話は自分の半径の人間との距離をゼロにします。
北海道にいる友人とリオデジャネイロの自分が通話をはじめた
瞬間、そこは生まれ育った足立区になります。目に見える景色は
時計台とサンバのダンスであっても「自分」を中心に広がる映像は
テレビのそれと遜色ありません。

電車の中での通話やメールも同じです。
自分半径が思考の中心になる個人自由至上主義者にとって、
公共の場もお茶の間と等価です。周囲に存在する名も知らぬ他人は
アウトオブ眼中で、携帯電話を通じて接触している相手だけが
リアルで重要です。

離れていてもそばにいるね。

エレベーター、電車の中、街角で見知らぬ人に囲まれていても
そこで孤独を感じることはありません。携帯電話が孤独を遠ざけ
てくれます。

そして自分と他者を区分することなく社会に出ていきます。

先ほどの師匠はいいました。

「あの世代(平成元年当時で50代、今は70代なので戦中から
戦後教育の黎明期)は今ほど自由に遊べなかったし早く結婚す
るのがよしとされていて、家庭と学校。勤めてもいわゆるお茶
くみだった時代なんだよ」

と、師匠のご母堂と重ねます。もちろん、それ一色で塗ってし
まうのは強引ですが、そしてこう続けます。

「多様な価値観と触れあう機会がなかったから選択肢も少ない。
だから自然と自分を中心にして考えてしまい、それが当然だと
疑わない」

悪意は無いとつけたします。

ここから「女性専用車両」と「草食系男子」とつなぎ、

「ジェンダーフリー」

へとつなげるために昨夜から本稿を書いていたのですが、
とんでもない大作になることが分かり(実はここまでの3倍の
原稿を既に書いています)一旦ここまで。

で、個人自由市場主義のひとつの形が政治にも現れています。

それがメディアの取材に対して答える視聴者のこれ。

「普通、しらないよね」

俺様が知らなかったのは誰かが教えなかったかのが悪いのか
もしくは俺様が知らないようなことは誰も知らないものだという
自分半径で世相を斬る傲慢さです。

テレビを見ていて私はこうつっこみます。

「だから、何処の国の普通だよ」

幼き日の記憶が蘇ります。

「いややわぁ、おばちゃんら、こんなんよう知らんもん」

幼稚園児が知っていることを知らないという大人が不思議でした。

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