サンタクロースはパパだった

 「自由」は野放しではなく、義務と裏表の関係で片面だけで存在
することはあり得ません。

また「自由」とは人類普遍の価値といわれますが、その意味は
文化や歴史、風土や宗教で異なります。

例えば日本人と韓国人、米国人とイラン人では「自由」は異なり
ます。

もっとも分かり易い例をあげれば「神」について。

神の「パロディ」も表現の自由と認める国もあります。日本は
ここに属しますが、一切認めない国は世界中には沢山あります。

ついで「政治体制」。

幸いなことに日本の周囲には特殊な(民主主義でないという意味
ですが、あちらからすればこちらがとなります)政治体制の国が
3つもあり、そこにおいての「自由」はかなり制限されます。

例えばロシア。前大統領で現皇帝の政敵となれば逮捕される
国情に日本人が思う自由などありません。そして将軍様の国家は
いわずもがなでスルーするとして、民主党が大好きな中華帝国が
認める表現の自由には共産党のお墨付きという制限が課せられます。

インターネットは「巨大なLAN」で、不都合な言葉は刹那に
抹殺され、ときには書き込んだ人間もリアルに抹殺されるとか
しないとかの都市伝説が実行されます。先日、知り合った中国の
方は「禁止用語」のはいったブログが数秒で削除されたといいます。

そして民主主義国家においても「自由」は絶対的なものでは
ありません。

より多数の安全を守るためなら少数の自由は制限されるものです。

例えば「暴走族」。いまどきの暴走族は六本木で梨園の坊やを
虐めているようですが、一般用語としての彼らはバイクなどで
暴走しています。

爆音を轟かせて他人に迷惑をかけることで、自己の存在を確認
するそれを「表現」といいます。

しかし、より多数の暴走族以外の市民にとって暴走行為は
危険で迷惑この上なく、制限の対象となり取締を受けます。

また、迷惑行為を重ねた結果、「法律」が定められ、あるいは
厳罰化していきます。

この「自由の制限」に異論を唱える人は少ないのではないで
しょうか。

ついでにいえば「自由」の裏表の「義務」を縦方向に隣接する
とすれば、横方向には「他人の自由」があります。自由が成立する
要件のひとつはこの「他人の自由」に抵触しないことです。

暴走行為による爆音は「他人が静かにときを過ごす自由」を
犯している点からも制限が課せられるのです。

自由というとネットでは東京都では「表現の自由」が声高に
叫ばれていますが、これについては次回、年内最終号に寄稿する
予定で周辺取材を続けておりますので、しばしお待ちください。

今回のテーマはこれ。

「大桃美代子による麻木久仁子と山路徹の不倫ツイッター暴露」

真贋ハッキリしていないことをお断りしておきます。
ここで述べる状況は「ツイッター」から収集できたものです。

大桃美代子さんが元夫のAPF通信社代表の山路徹さんと
タレントの麻木久仁子さんが不倫をしていたと暴露しました。

一部報道では「元夫」とだけ報道していますが、通信社の代表
というお立場から、本稿では実名としております。第一、
ペンネームは晒すもの、もとい公表を前提としていますので。

これを受けてか、頻繁に投稿されていた麻木久仁子さん、
山路徹さんの「つぶやき」が止まります。

また、著述業の日垣隆さんが、この麻木久仁子さんへ
アドバイスをしていたと、こちらも「暴露」しております。

結論を述べれば「どうでも良いこと」。

逆にここ数年の麻木久仁子さんの「思想」がかった発言が
鼻についていたのですが、お付き合いしている男性に感化され
たものであれば女性はいつまでも乙女で可愛いなぁとニタニタ
するだけのことです。

また大桃美代子さんにしても、山路徹さんがまだ好きなのだ
ろうという邪推に「演歌の心」をみる想いで「北の宿から」が
リフレインします。

山路徹さんはといえば、ま、おもてになるね♪

というぐらいですが、社会正義やエコを訴えるミュージシャン
が「となりにいる女性」を大切にしない様を見るにつけ、絵空事
の世界の住民なのだとしみじみと噛みしめます。

ツイッターで晒されている情報が事実だと仮定すれば、山路徹
さんはこう主張するのかも知れません。

「人を愛するのは自由だ」

もちろん。不倫も互いの了解があってのことで日本国内では
刑事罰にはなりませんしね。

誰でも自由に情報が発信できる社会はきっと良い社会なのでしょう。

しかし、自由には義務が伴うのであれば、暴露する以上、
その論拠を示すのが暴露の自由においての義務です。

繰り返し述べておきますが、他人の睦言はどうでもよい話しで
大桃さんにそれを求めているのではありません。

ただ、こうした自爆テロのような「暴露」の先にある懸念から
取り上げているのです。

それは、多数の自由を守るために少数の自由は制限され、
自由によって他人の自由を侵してはならないもとするならば、
大桃美代子さんのような「暴露」を放置し続けることは
その先にある「制限」を待つようなものだということです。

これは「ウィキリークス」に通じます。

「なんでも晒す」

ことが多数の自由を損ねる可能性の前に政治は強権を発動する
日がまもなくやってくるかも知れないのです。

自由というのは野放しではなく、一個の人間として自立した
もの同士の間で成立する高度な概念で、一時の感情や、思いこみ
での行動を許可するものではありません。

これが守れない人間が自由を謳歌し始めたときに、それをよし
としない「多数の声」が生まれてしまえば、自由を弾圧する声が
正義となります。

私が怖れるのはこれです。

民主党政権が嬉々として披瀝した「核の密約」などは私にとっ
ては「何を今さら」で、あったとしてもそこは片目をつぶるのが
大人の所作であり、時節柄で述べれば、

「サンタクロースはパパだった」

を証明するぐらい下世話なことだと考えます。

そして「真実を知りたくない自由」だってあるのです。

中学生男子の意中の同級生の「好きな男子の名前」が
自分以外であることのように。

2010年、「自由」が暴走しかけています。

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