言葉狩りの本質

 いろいろと突っ込みどころ満載の民主党政権ですし、復興対策に
もひとこともの申したいところですが、ここは物書きの末席を汚す
ものとしていわねばならぬとペンを持ちます。いや、キーボードを
叩きます。

 本当に失念してしまいましたが、失言で大臣が辞任しました。
 いま、思い出しました鉢呂吉雄前経産大臣です。

 「死の町」発言については、発言の幼さから見えてくる大臣とし
ての資質のなさはともかく、一部にはその表現を擁護する声もあり
ました。小倉智昭さんなどはその代表例でしょう。と、いうのは
民主党支持者・・・というよりアンチ自民党芸人によく見られた
特徴だからです。

 そしてこう続けます。

「失言ぐらいで大臣がコロコロ変わるのは如何なものか」

 さらにはこんな意見も

「言葉狩りだ」

 ・・・一連の発言に結論を述べれば、民主党擁護であり、再政権
交代を阻止したいという願望の表れに過ぎないのですが、言葉狩り
ではありません。

「失言狩り」

 です。しかし、思い出してください。

「みぞゆう」「ふしゅう(踏襲)」「はんざつ(頻繁)」

 をあげつらったのは誰でしょうか。こんなものは「言い間違い」
や「うろ覚え」で、政治家の資質と関係ありません。文部科学大臣
なら恥ずかしいかも知れませんが、これと比べれば「死の町」に
より政治家としての資質が問われることには頷けます。あくまで
比較論ですが。

 もっとも「死の町」とお茶の間で聞いた時、妻に言いました。

「本当のことを言える政治屋が民主党にもいるんだ」

 事実を率直に語れる。政権交代後、ひさしく見なかった光景かと。

 ただし、同時に「言葉足らず」も指摘しました。

「事実を語ったあとには希望も語らなきゃ」

 そしてこう結びます。

「辞任だろうね」

 それではこれぐらいの発言で辞めるべきかどうか、「言葉」とし
てだけ見るなら、私は辞める必要はないと考えます。もちろん、
その後の「放射能つけたぞ」も悪ふざけにしては時代の空気を読め
ないものですが、「言葉」だけをみれば辞めるほどではないと
考えています。

 少し余談を。この発言は「オフレコ」だったということが、
やはり、いちぶアンチ自民党芸人からも聞こえましたが、まるで
断末魔の叫びです。

 オフレコ取材とは、すなわち非公式ではなく、固く結ばれた
信頼関係の上に成立するもので、「阿吽の呼吸」が通じる相手と
のあいだで行われるものです。だからオフレコ取材では、

「話して良いことと墓場まで持っていくこと」

 が峻別されます。つまり、「言うなよ」といいながら「関係者筋」
「政府筋」と洩れ伝えてくるようなものは、オフレコから流れて
くるものが多数です。

 ところが民主党の政治屋もアンチ自民党芸人の電波芸者も

「非公式=オフレコ」

 として「我が身」を庇い、世論を謀(たばか)ろうと画策して
失敗しました。なりふり構わぬその姿勢は、すべてに通じる
末期症状です。

 話を戻します。

「言葉」

 とは意思伝達のための記号です。前後の文脈も発言者の立場も
政治的背景も抜きにしたとき、あるいはジャーナリストや小説家が
惨状を伝えるために、人の消えた原発周辺の町を「死の町」と表現
したのなら、誰も問題にはしなかったことでしょう。

 政治家としての言葉・・・意思を問われたのです。

 そして裏返してみれば、政治家としての信念を持っての発言なら
撤回することも、ましてや辞任する必要などありません。そういう
言葉のセンスをもった人格だと、次の選挙の材料にすればよいだけ
のことに過ぎません。

 この騒動でラジオパーソナリティの吉田照美氏なども、誰かの
発言をリツイートしてあげつらっていましたが、石原慎太郎都知事
の「暴言」を並べて鉢呂氏を擁護しようとしますが、あまりにも
幼い論法です。

 都知事に四選されたことに「東京都民」をバカにする発言まで
ありましたが、バカと言われたので都民として言い返します。阿呆。

 慎太郎ちゃんの発言を含めたパーソナリティは晒されており、その
上で都民が選んだ(もちろん、多数決に問題がないとはいいません
し、それは民主党政権が露呈していますが、その議論は今回は
棚上げ)のですから、それをバカ呼ばわりするのは民主主義への
冒涜・・・と、そうか政権交代を熱望したなかには、左翼シンパが
多いので民主主義そのものを否定しているのだとしたら、たしかに
バカと罵られても「犬の遠吠え」ぐらいに聞き流さなければならな
かったのだと今きがつきました。

 すいません、脱線から復旧します。

 つまり、石原慎太郎都知事は発言に信念を持っており、いきすぎ
たときは撤回し謝罪することもありますが、同時に言葉が自分を
表すことを理解した上での確信犯で、都知事の言葉を改めよという
ことは、人格否定につながる暴挙であること、多くの人が本質的に
理解しているので許容、というか見逃されているのです。それが
証拠に「イデオロギー」が違う人は、都知事の発言を永遠に追究し
「自己批判」をもとめ「総括」を要求します。

 念のため補足しておきますと「自己批判」も「総括」もこの文脈
においては全共闘時代のニュアンスで、自分の考えを悔い改めるこ
とを求めるもので、中国の文化大革命ではアイデンティティの崩壊
まで要求するほど過酷なものだったようです。

 鉢呂氏の発言は「そういう人」という人格の告白に過ぎなかった
のです。最近、退院して自宅療養中という噂の松本龍前大臣も同じく。

 とはいえ、アンチ自民党芸人がヒステリーを起こす「言葉狩り」
への懸念は別の角度からあります。端的に述べれば

「異端排斥」

 言葉は人格を表します。下世話な言動、愚かな発言は、その人の
教養や知性を表し、足元を見られ、仰ぎ見られるための材料です。

 ところが現代日本において「世論(せろん、輿論ではない)」
からはみ出すものを「同じ日本人として恥ずかしい」的な論調で
排斥をします。

 一神教においては異教より異端に厳しく、近親憎悪によるもの
とされており、異教徒はキリスト教から見た時の仏教や神道な
どで、異端とはカトリックとプロテスタントの違いです。

 同じ日本人という枠組みのなかで「世論」にそぐわないものを
排斥する「空気」をわたしは怖れます。それは世界中の紛争の
火種となる一神教のような排他的な空気です。

 いまに始まったことではありません。

 かつてある女子プロゴルファーが他のアマチュアスポーツに対し
て「金が稼げないのにやっている理由がわからない(筆者記憶に
よる要約)」と発言したブログが炎上しました。

 やはり女子の雪上競技者が当時批判の最中にあった格闘家の
試合を感動したと素直な感想を述べたら袋だたきに遭いました。

 それぞれ彼女らの人格、性格の問題で、いまから四半世紀前に
イラストを描くのが大好きで、作品には同級生の評判もそこそこ
にあり、「アニメーター」を志したものの、アニメ雑誌にあった、
就業しても数年間は食べていくのも困難なほどの薄給であるという
記事に、即座にその「夢」を放棄した私にはゴルファーの発言は
理解できます。

 夢のために生きるとはきれい事で、あるいは親や周囲の支援を
受けられる恵まれた人間だけが得られる奇跡のような偶然で、
現実社会は金を稼がなければ食べいかれず、食べなければ人は死に
渇望する「生」は本能ですから致し方ありません。

 いや、そうではない・・・と思ったとするなら、それはあなた
の人格であり、私のそれではない・・・と、いう当たり前すらも
発言できなくなりつつある空気が「言葉狩り」「失言狩り」の
正体なのです。

 ブログやTwitterで「それは違う」と議論を越えて、誹謗中傷する
のも同根です。自由な発言が認められているのなら、持論を自由に
展開する機会が与えられているのにも拘わらず、わざわざ対象に
絡んで折伏しよう等する様は、新興宗教の勧誘とさしたる違いは
ありません。

 違う考えを持つ人は違う言葉を使います。それに納得する必要は
ありませんが、そういう人もいるのねと割り切ることが、かつての
日本人の所作でした。たまには強引に自説を曲げない人もいました
が、そういう人はそういう人と次第に人が離れていったものです。

 それがいま「言葉」の背景を斟酌せず、自分たちのなかのちっぽ
けな正義を振りかざし「言葉」を狩っています。

 つまり政治家を辞めさせているのは私たちです。

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