荻上チキは韓国と同じフォーマット

 「うちわ揉め」のあった10月7日の参院予算委員会。民主党の福山哲郎は追究します。

「松島大臣、我々がうちわを配ってもいいんですか?」

 その前の蓮舫がうちわの配布を「違法だ」と断じていたのですから、違法性を認識した上でなら悪質性はより高いといえるでしょう。

 例えばはじめに追究した蓮舫が、そう問うのならば

「法務大臣への確認」

 と強弁もできますが、

「うちわを配ったことは違法だ、大臣を辞職し、安倍首相の任命責任を問え!」

 という狙いがあったことは明らかな民主党 蓮舫参院議員の質問時間を借りた形の、同党 福山哲郎参院議員が

「俺たちもやっていいの?」

 と問うのは、違法性を認識した上での犯罪予告か、屁理屈という時間の浪費です。そもそも、その蓮舫も、かつて「うちわ」を配っていたというのですから、「うちわ揉め」としか評しようがありません。

 松島みどりと蓮舫の違いは「骨組み」の有無で、蓮舫のそれはボール紙に持ち手の箇所に穴が空いた、駅でノベルティとして配られると「安っちいな」とゴミ箱にポイするアレです。

 対する松島みどりの「うちわのようなもの」は、骨組みに紙が貼られた「うちわ」で、蓮舫が問題視したのは「寄付行為」であり、それは「価値のある商品」という前提があり、確かに「ボール紙」よりは「価値」はあるでしょう。

 仮に蓮舫は自らのボール紙を卑下し、骨組みに「価値」があると主張するなら、松島みどりをもう少し追い詰めることができたのにと、いずれにしろくだらなすぎて目眩がしますが。

 外国語は不得手ですが、日本語には「文脈」があり、文学作品ではない日常会話にも存在します。曖昧表現の多い、日本語では前後の文章で、単語の意味が変わります。

 好調な滑り出しを記録したNHK朝のテレビ小説「マッサン」の昨日の放送で「ハズバンド」を意味する日本語として「ご主人」「旦那」「亭主」などと紹介し、その意味をキャサリン(=種子、濱田マリ)は「キング」と訳します。

 一方の「ワイフ」を「奥様」「妻」として「ハウスキーパー」と説明したので、スコットランド人の主人公は不満を覚えるというシーンがありました。

 難解な日本語とは、語彙の豊富さ、表現の豊かさを意味します。ただし外国人にとっては理解しがたいことも多いので、充分な説明をできるだけの知識が求められ、英語教育を低年齢化により

「中身のない英会話しかできない日本人を量産する」

 という懸念があるのは当然でしょう。だから、知識と教養を兼ね備え、それを英米人に充分伝えるレベルの

「英会話学習」

 ならば、0才児から義務教育にしたとして、誰からも不満があがることはないでしょう・・・実現可能性は脇に置いた余談です。

 「主人」をそのまま訳せば、雇い主への表現と重なり、さらにいえば奴隷の管理者も同じ言葉を使い、そこから女性蔑視と受けとる人もいるでしょうが、日本語においては謙譲語に近く、もっといえば大した意味はありませんし、男女どちらにも使います。

 キャサリンがいうところの「キング」への言葉なら「主君」や「殿」「我が君」など、また別の適切な表現があるからです。

 また、制度上は家父長制を採用していたことから、

「責任の所在」

 という面もあったとみています。いわば「主犯」の「主」とみれば、子どもをはじめ、家族や一族の不祥事の責を負わされる日本社会の特徴を表しているとも言えます。

 さらに「妻」という言葉を、「刺身のつま(妻)」から、添え物というニュアンスで解することもできますが、語源を辿れば、男女の区別なく使われていた「パートナー」という意味です。

 そして「奥様」について、もうひとりの主人公(スコットランド人を嫁に貰った旦那)は

「家の奥の仕事をするから」

 と説明し、この奥とは家事全般を指すようですが、日本語において「奥」とは、「奥の院」「奥義」という言葉示すように、最重要とか本質というニュアンスも含み、各家々の

「奥を牛耳る」

 と説明すれば、なかなか真実をついており、ハウスキーパーでないこととは明らかとなるでしょう。

 少々、逸脱しましたが、日本語・・・に限らずですが、文章から一部を抜き出し批判し、あるいは論評することは適切ではないということです。

「うちわ」だけを持ち出したから蓮舫は失敗したのであり、自らの「ボール紙」と比較することで、「価値」という文脈から攻撃ができたことは既に述べた通りでふっ(失礼、しゃっくりが)。

 松島みどりの問題は、噂レベルも含めれば溢れかえるほど噴出しており、はっきりいって人選ミス。むしろ野党の追究の生け贄で、しかる後に入れ替えて、支持率アップにつなげるための布石ではないかと、いぶかるほどの逸材です。

 淡々と指摘していれば、野党にも自民党内にも脅かす敵が見えない安倍政権にとって、ボディブローのようなダメージになるのですが、いまだ戦い方の知らない民主党に救われました。そして民主党に、ふたたびお鉢が回ってくることはないのだろうと安堵しています。

 たいていの騒動や事件、犯罪にも「文脈」があります。突発的、突然変異の怪事件は、驚くほど少ないものです。それは人間の社会性から導かれるコンセンサスが裏打ちします。社会性とは国による文化の違いが強く、日米のそれは「銃」ひとつとっても違いますが、少なくとも日本国内において、ひとつの事件は他山の石としようと善良な市民は受け止めます。

 この日の民主党 小川敏夫の質問時間。山谷えり子大臣への追究で飛び出した「懇ろ(ねんごろ)」発言。在特会の人間(男性)が、山谷えり子のホテルの一室に押しかけ、記念写真を撮り、その様子をネットで紹介したことを持ってのヤジです。

 都議会 塩村文夏(みんなの党)の基準に照らすなら「セクハラ」です。男性との「密会」と印象づける小川敏夫氏の発言にひっかけたヤジなら、文脈は「セクシャル」と解するべきでしょう。

「懇ろ(ねんごろ)」とは男女間の睦まじいコミュニケーションを意味する言葉で、平たく言えば「肉体関係」を意味します。さらに在特会側はヤジがいうところの「懇ろ」をネットに公開しており、接続するなら、山谷えり子という女性は、秘め事を公開する性的趣味があるという揶揄であり、セクハラを通り越した人格攻撃といってよいでしょう。むろん、塩村基準によればです。

 発言は民主党の野田国義参院議員。当初は謀るつもりだったようで、発言者の名前は伏せられていましたが、

「声紋鑑定」

 される前に白状した方が、被害は少ないとみたのか、名乗り出ましたが当初は謝罪などしていません(結果的に山谷事務所を訪れて謝罪)。

 しかも「懇ろ」を「親しい」との意味で使ったとし、

「九州ではよく使う言葉」

 と強弁というか詭弁を弄します。ネット上での反応をひと言でまとめると

「いわねーよ」

 九州人が怒っていました。

 そういえば復興担当大臣当時の松本龍(もちろん民主党)は、岩手県知事を前にして

「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん。」

 と、宮城県知事には

「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。」

「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、『書いたらもうその社は終わり』だから。」

 とメディアを脅迫するなど、短期間に暴言を量産し、

「私は九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かった(以下略)」

 とこれまた九州エスケープ。九州は別の言語圏のようです。
 まぁ九州人ではなく、騒動の文脈を正しく把握すれば「民主党」に問題があることは明らかです。

 塩村文夏のときは、セクハラヤジ(塩村基準)と、あれだけ騒いだリベラル陣営が触れません。日頃「セクハラ廃絶」を掲げるリベラルや左翼の文脈で見れば、絶好機のはずです。

 しかし、テレビはほぼ全滅。30代の塩村ならセクハラで、60才を軽く越えた山谷ならセクハラにならないというのなら、それこそセクハラです。「灰になるまで女」とは大岡裁きのエピソードとして紹介されますが、ならば年齢はセクハラ認定の基準にならないはずです。

 自由に発言ができるはずの、ネット界隈でも同じです。

 津田大介氏とか、荻上チキ氏とか、山谷えり子への攻撃にふれないか、むしろこれをもって自民党攻撃につなげようと試みます。

 もっとも醜悪だったのが、荻上チキ。ラジオ番組(のYouTubeより)にてはこんな感じ。

 発言者の野田国義の発言を長々と紹介し、在特会がネットにアップした文章にある「夜明けのコーヒー」から、性的な質問だと大臣は認識しているという点を問題として指摘。

 ここまでなら見事。いまの左翼はもちろん、リベラル陣営、というか「若手論客」が醜悪であるのは、自分に都合の悪い事実や発言から逃げることです。

 それを踏まえた上でも、尚主張するならば論を強化する必要に迫られ、軌道修正するなら主張に至った道中に反省点を見つけなければならず、どちらを選択するにせよ議論の深まりが期待できます。

 ところが、嫌なことからは逃げることを恥じない「若手論客」らにとって、反省など別次元の話しです。

 正直、荻上チキをこの瞬間だけ評価しました。

 ただし奥歯にものがはさまりまくった言い回しが気になっていると、野田国義については「謝罪しているワケですけど」と擁護。おやおや?

 そして「民主党の中では反省と引き締めが必要」と、上から目線で語ります。荻上チキって政治評論家でしたっけ? それとも民主党の顧問か何か?

 しかし、一般論からのアドバイスなら、彼は正しく物事を見極める力が不足しているようです。民主党の問題は先に示した「うちわ問題」一事を持って明らかなように「言動不一致」が持ち味で、反省しても引き締めても性根を入れ替えない限り、改まることがないのは、泥水はどれだけかき回しても泥水だからです。

 それが「ブーメラン政党」と呼ばれる理由です。

 荻上は「自民党は都議会では」と続けます。そしてすでに収束したはずの「塩村事件」を攻撃。理由を自民党は「下手人」を一人しか差し出さず、それも遅くなってからだと・・・荻上チキ。卑怯なり。

 自民党の対応は誉められたものではありませんが、荻上チキ論法は時系列を無視しています。

 まず「謝罪」という結論にどちらも達しているワケで、野田国義は見逃せとして、返す刀で自民党(都議会)を攻撃するのはダブルスタンダード。どちらも「謝罪しているワケ」ですよ荻上くん。

 人数論もヤジの中には民主党(都議会)もいるワケで、塩村文夏と「みんなの党 東京」が「声紋鑑定」までやっても特定できなかったワケですから、

「疑わしきは被告人の利益」

 の原則が適用されなければならないワケです。

 なにより「時系列」というのは、事実を推し量る上でとても重要な座標となります。別の言葉で言えば「文脈」です。

 嫌な例えですが、20年前「飲酒運転」はそれほど重大な犯罪という認識は薄かったといえます。福岡の凄惨な飲酒殺人(レベルです)により一気に問題意識が高まります。残念ながら、その後なんども繰り返されていますが、しかし、福岡の事件前後では、コンセンサスは別次元です。

 私が柿沢未途(維新の党、東京15区・江東区)を認めないのは、事件後の2008年に飲酒運転の末、首都高で車両事故を起こしているからです。飲酒の上に、首都高速を走行することが、どれだけの惨事を起こすか。

 事故後、都議を辞職しますが、1年半もせず、「みんなの党」から国政を目指し当選するという「焼け太り」です。個人的な好悪の感情はまったくありませんが、経歴と発言、立ち居振る舞いを見る限り、国会どころか、政治に関与すべき人間ではないように思えてならないのです・・が、それは江東区民の民意。

 話を戻せば、すでに犯罪なり、問題が顕在化して、改めようというコンセンサスができている上での「セクハラヤジ」と、それ以前を同じ土俵にあげることは、日本国内というより、過去に遡り罪を問う「遡及法」が認められていない法治国家においては「ナンセンス。それは中華文明圏、とりわけ韓国における「慰安婦」を巡る主張と同じです。

 ここでネトウヨなら荻上チキ氏を「在日認定」とするところでしょうが、韓国籍の日本在住者であっても、立派な人間がいることを知るものとして、その認定は何の意味もないと思うわけですが、日本におけるリベラルや左翼、あるいはその思想構造を持つものが、彼らと同じ「時間軸を無視した主張」をして恥じない奇妙な符合が気になります。

 セクハラヤジとて同じです。塩村文夏騒動を批判するなら、問題点が明らかになった後の「犯行」は、事件への反省のない凶悪事例といってよいでしょう。

 水銀や鉱毒を垂れ流すことは、現代社会において見逃されることはありません。発覚次第、会社は解散に追い込まれます。過ちは(できるだけ)繰り返さないようにすることは人類の知恵のひとつです。

 ならば「知恵」のない、野田国義はもっと批判されるべきですが、荻上チキは、先のラジオ番組で自民党批判へとつなげ、最終的には「言った・言わない」ではなく、ヤジそのものへと議論拡大するのも「慰安婦」のフォーマットにそっくりです。

 山谷えり子大臣へのセクハラヤジ触れた時点で「評価」しましたが、結局、自民党批判の材料とするご都合主義に、やっぱり「日本的リベラル」なんだと再評価。もちろんプラスではありません。

 ちなみに番組ではその後、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の「監禁(出国禁止)事件」について触れますが、論をこねくり回すだけで何を言いたいのか分かりません。

 そして「慎重に考えなければ」と、「表現の自由」と「報道の自由」、ついでに「人権侵害」という重大事だと理解していません。あるいは感じてはいても、思想信条が異なれば、その自由とやらも変わるということでしょうか。実に左翼的です。

 日本的「文脈」における論理展開において、前後の文章はとても大きな意味を持ち、時系列を無視すれば、議論の捏造など他愛のないことです。

 アンチ自民は政治批判なので当然としても、反日活動家、韓国や北朝鮮、中国の利益のための活動にも「言論の自由」を与える素晴らしい国、日本です。

 だからこそ「文脈」への注意が、正しい理解へ導くガイドラインとなります。

 蓮舫は「うちわ」を追究し、福山哲郎は「うちわ配布」の許可を迫り、そもそもの蓮舫は「(骨組みのない)ボール紙だから“うちわ”でない」とします。

 塩村文夏へはセクハラと断罪し、山谷えり子へのヤジは不問に伏す。リベラルの主張や発言を、「文脈」で理解を試みようとすると、不条理小説のような難解さです。

 ちなみにというか、何度も繰り返していますが、塩村文夏へのヤジを私は「セクハラ」と考えてはいません。だから、野田国義氏の「ねんごろ」については何とも、というより粗忽だなという感想ぐらいです。

 また在特会の「夜明けのコーヒー」を「洒落」と理解しない、言語センスを醜悪だなぁと。

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