日本国は憲法は死んでいる。からの結論に迷走する玉川徹

 パステルカラーの「サンデーモーニング」といった趣のテレビ朝日「モーニングバード」。つまりは反日ということで、今年も「闘争」を隠しもしない『玉川徹 そもそも総研たまペディア』。選挙が終われば絶賛、偏向報道中です。


2015-01.08 戦後70年「日本国憲法は既に“死んでいる… 投稿者 kigurumiutyuujin

 ただし、いま気がついたのですが、コーナーの正式名称「そもそも総研たまペディア」の「ペディア」が「ウィキペディア」からのインスパイアなら、「嘘もあるよ」という暗喩なのかも知れません。

 さて、昨日(2015年1月8日)は「日本国憲法はすでに死んでいる!?」と題して、なにを報じるかと思えば、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』の著者 矢部宏治(@yabekoji)氏の「説」を中心とした、一種の「番宣(正確には記事広告、もとい書籍宣伝)」。

 嘘だらけとは言いませんが、事実誤認と選択的情報開示が多く、まるで福島第一原発において「撤退」と報じた「朝日新聞」です。親会社のカルチャーをいまだ死守しているということでしょうか。

 文化人類学的というか、歴史的にも本家より分家が過激に走り、原則に固執するのはよくあることです。

 その主張を簡潔に述べれば

“「砂川判決」により憲法よりも日米条約が上位にあると判断してから日本国憲法は機能していない。すなわち現在も占領状態である」

 ということ。その通りじゃんと膝を拍つ、「保守派」も「右派」も「極右」だっているかもしれません。

 忸怩たる思いから、激高まで振れ幅はありますが、日本が現実問題占領下に置かれていることに真っ向から反論するのは、むしろ左派です。だからこそ「改憲」を求めいるのですから。

 そもそも話題の軸となる矢部宏治氏を調べてみると、ほとんど情報がでてこない不思議な人物。陰謀論の泰斗 孫崎享氏や、琉球新報の論説委員まで務めた 前泊博盛氏の書籍に絡んでいる人物で、思想的背景は明らかながら、それ以上の「素性」が見えないところは不思議です。例えば純文学や、ミステリー小説などの「作家」なら、背景に作品の以上の意味はありませんが、論考ならば不可欠ながら、番組内でもこれに触れることはありません。

 矢部宏治氏を怪しい人物と断定するものではありません。人物像もまた、情報を精査する上で重要なファクト(事実)になるからで、「報道」においては当然のことで、新聞報道がいまだに妙齢の女性まで括弧付きで「年齢」を添える理由も同じです。

 玉川徹氏の論理の主張の偏向さは、冒頭から遺憾なく発揮されます。

 矢部氏の結論として

「日本国憲法はGHQが書いた」

 とします。これはリベラルと左翼以外にとっては「常識」ですが、その上で、改憲派と護憲派の対立を「ねじれ」として、こう区分します。

改憲派:日本国憲法はGHQが書いたから変えよう(人権について削ろう)
護憲派:当時の日本人には書けないような素晴らしい内容だった(人権について)

 まず、前提条件で「主義主張」をいれこみ、間違った前提のまま議論を薦めるのがリベラルや左翼の得意とするプロパガンダです。

 改憲派とは、GHQが書いたことが気に入らないと「幼稚さ」をアピールしマシが、これは、当然というか、独立国として当然で、そもそも敗戦国の憲法を戦勝国が作ることは国際法の重大な違反で、矢部氏の結論を遵守するのであれば、避けては通れないことを無視するのは流石という卑怯のなせるわざです。

 ましてや、改憲派のだれが人権を抑圧しろといっているのでしょうか。玉川徹や松尾貴志らの日頃の発言から推察するに、「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を指すのかも知れませんが、人権が守られるためには、国家の主権が維持されるのが大前提で、その為に一定の人権が抑圧されることはやむを得ないことで、平時と戦時とを同レベルで語るのは狂気の沙汰か、幼児のバカに過ぎません。

 つまり、原則を踏みにじり、ありえない条件設定で「改憲派」が語られているのです。

 つぎに、護憲派の推奨するように、すぐれた人権を盛り込んだ、それは「日本人には書けない内容」だったのであれば、その後、追随する国が現れても良いはずですが、現実にそんなことは起きていません。

 なぜなら、米国の赤軍・・というかリベラル派による「社会実験」だったからです。いまだに人種差別の色濃い米国を想像すれば分かるように、人類史に残る人権実験を黄色いサルの国で実験したのが日本国憲法なのです。

 ところがそれが意外と機能しているのは、日本は世界に類を見ない「人種差別の窮めて少ない文化」をもっていたからで、ほぼないといっても過言ではないのですが、これは余談。

 玉川徹自身が「お花畑」と紹介する、戦争と武力の放棄を謳った

「憲法9条」

 についても、

「当時は国連軍の創設を念頭に置いていた」

 としてお花畑論を否定しますが、本当に正味のバカと断じます。国連軍が機能しないことは、現実が教えてくれ、山本太郎のゆかいな仲間に成り下がった小沢一郎が提唱した自衛隊を「国連軍」へが仮に実現していれば、尖閣の海で、小笠原の海で、我が日本の海上自衛隊や報道陣に、銃口を向けるのが国連軍を名乗る日本人だったのですから。

 しかも玉川徹は、国連軍が実現しなかった理由を、ソ連の台頭に求め、こう言い垂れます。

「権力者は共産化を怖れた。ソ連により指導者が追い出されるから」

 つまり、己が保身のために、憲法をそのままとして、米軍の駐留を容認したということです。

 その進駐軍=米軍のなかでも、赤化を防ぐために、占領政策を大転換したことにはまったく触れません。

 すてべに突っ込みをいれる時間がないのは残念ですが、「憲法論」を持ち出して議論を強引に薦めます。それは

“憲法の下にあるはずの条約が、憲法の上位にある。すなわち憲法は死んでいる”

 ということで、これを「常識的な見解」といいます。

 これは「国際法」と「国内法」で意見が分かれ、一種の「神学論争」になっているテーマで、

「TPP」

 では逆のことをいっていたとはうろ覚え。

 つまり、一旦締結した国際条約は、憲法よりも優先されるので、TPPが妥結されれば、日本人の権利が侵害されるというもの。

 国際法の専門家ではありませんが、欧米的な「常識」で考えれば、国家観で結ばれる条約は、国内の同意を得たものと考えられます。つまり憲法の制約を踏まえた上でと考えるものなのです。

 企業間で考えれば、契約書を交わした取引は、社長の決裁、社員総会の決議を得たものか、それに準ずるというもので、あるいは家族ならば、家の売買を契約した後に、長老である祖父が反対したからといって、

「わが家の長老が反対したので契約は無効です」

 が認められるワケがないことを考えれば明らかです。

 国内法における序列において、憲法が最上位にあったとしても、相手のある国際条約においては、実際的に条約が上に来るもので、日米同盟(条約)に問題あるのなら、それを改訂する努力をすべきで、さらに憲法に問題があると考えるのなら、

「憲法改正」

 こそ正しいということで、安倍政権を批判するつもりが、ゴールが同じなるという珍妙な結論。難癖を得意芸とする松尾貴志も困る偏向ぶりでした。

 事実をふまえ論理的に考えれば「憲法改正」は当然のことであります。ただし、もうひとつだけ珍説を指摘しておきます。

「国民を守る最後の砦の憲法」

 とは嘘。民主政治を採用している我が国には「選挙」という手段こそが「最後の砦」です。

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