デジタルネイティブがバカッターを生み出す?

デジタルネイティブ
 巷間ささやかれるIT、ネット論から見えてくるのは「珍説」の二文字です。

 非常識な投稿や、醜態をネットにさらす「バカッター」や、三鷹の女子高生ストーカー殺人事件における「リベンジポルノ」など、ネットが絡んだ事件が起きるたびに、ネットに明るいとメディアに紹介される有識者は、こう反論します。

「ネットは道具に過ぎない」

 その通り。彼らの主張は、どこかの博士が、その博士論文で「コピペ」をしていたかのような定型文で、要約するとこんな感じ。

「通り魔がでたからと包丁を規制しろとは言わない」

 正論のように見えますが、実は「珍説」。

 ネットの破壊力や影響力を、同種の凶器で例えなければ、フェアな議論にはならないからです。包丁はせいぜい、数人から十数人に危害を与えるのがせいぜいですが、ネットは数万人どころか、数百万人の被害者をだすことだって可能です。

 日本ではピストルは所持できず、所持が認められている米国でも販売には一定の制約があります。また、殺傷能力がより高い爆弾の所持なら、米国でも逮捕されます。爆弾事件が起きるたびに取り締まりが厳しくなるのはいわずもがな。

 安直な規制を是とするものではありませんが、ネットに関しては「野放し歓迎」的な「珍説」がはびこります。

 もちろん、珍説も思想信条・表現の自由が保障するところですが、それを無批判に垂れ流すテレビや新聞の問題は根深いモノがあります。40才がらみのオジサンながら「若手論客」と呼ばれる連中の珍説の拡散です。

 いわゆるジャーナリズムが心に持つべき「批判精神の牙」とは、権力者に対してだけ向けられるものではありません。弱者や民間企業、評論家や同業のジャーナリストに対しても、同じ心構えで接しなければ、単なる「反政府主義者」に陥ってしまうからです。

 ところが珍説を有り難がり「ネット=自由」で思考停止します。すでに触れたように40才を越えていながら若者ぶったオジサンが、いや、精神年齢は幼いことから無自覚なのかもしれませんが、ネットは新しく、若者に親しく、そして自由だと拡散し、メディアは彼らをオーソリティに位置付け、盲目的に追随することで免罪符とします。

 ちなみに既に三十路に足を踏み入れながら、若者の代弁者然として世代間格差を語る古市憲寿の浅薄さは、たびたび取り上げていますが、彼をいまだに好んで使うフジテレビに代表されるメディアは、

「若者=新しい価値観=珍説」

 という三段論法に囚われています。これも「思考停止」です。

 彼を見かけるたびに、若者(私の定義では20代中ごろまで)への誤解が拡がることへの憐憫を隠しきれません。

 珍説が流布される理由のひとつは「老害」です。

 40才を過ぎても「若手」と呼ばれるのも、30才を越えても「若者」と称されることも、より上の世代が、具体的に言えば「団塊の世代」が、自分たちを老人ではなく現役を意味する壮年と思い込んでいるからで、壮年をアピールするためには対比する存在を、一段下に配置する必要があるからです。

 ピークを過ぎたプロレスラーが、未熟なレスラーに胸を貸すのは後進の育成のためですが、それをメインイベントに据えているようなもの。

 実際の所、世界はネット規制に舵を切っています。中国や北朝鮮が、海外のサイトを遮断しているということではなく、欧州議会がネット検索における独占企業と言っても過言ではないグーグルに分割を求め、同時に「忘れられる権利」を主張しています。

 国内でも「児童ポルノ」は、別の価値観から賛意が多数派ですが、規制は規制で、健全であり当然です。

 韓国では国家統制という、さすが「中華文明圏」らしい理由から、ネット規制が行われ、自国産のサービスから、他国のものへ乗り換える「サイバー亡命」が起こっています。

 規制論が上がらないのは米国ぐらいですが、表現の自由をなにより尊ぶ国柄だけではなく、事実上、ネットを支配しているのは米国で、規制とは手中に納める万能の鍵を制限するようなものだからです。

 検索市場はグーグルが支配し、フェイスブック、ツイッター、ドロップボックス、その他諸々に、ウィキリークスやスノーデンの告発があり、なによりネット上の住所に当たる「ドメイン」を仕切っているのは事実上、米国です。

 大づかみで言えば、なんらかの形でネットを規制、制限する頃身は「米国以外」では行われているといっても良いでしょう。だから、「ネット=自由」を基盤とする主張は、すでに「珍説」なのです。

 あるいは「米国=世界」と同義であった、20世紀の日本なら通じた「旧説」といったところでしょう。

 ちなみに米国のFCC(連邦通信委員会)が「規制」を持ち出したのは、動画をガンガン流すような業者からは高い料金を取る、通信容量による区別で、世界のそれとは異なる「お金」の話しです。

 「デジタルネイティブ」も「珍説」です。「デジタルネイティブ」とは、生まれながらにネットやIT機器に囲まれている世代は、こうしたツールを自由自在に使いこなせるというものです。

 社会学者のダナ・ボイドは『つながりっぱなしの日常を生きる(草思社)』で言下に否定します。新聞雑誌の各種書評欄でも紹介されていましたが、調査対象となった米国社会の特殊事情から、日本国内にそのまま適用できる内容ではありませんが、本質において鋭い指摘がなされています。

 評論家の宇野常寛氏が、読売新聞の書評欄に寄稿した内容とは正反対のもの。

「ネットが過剰に可視化する社会」

 と題し

“ネットが過剰に可視化し拡張するものをいかに活かしてポジティブな社会を築くか、に移行しているはずだという思いも強くなる”

 と、「活かす」「ポジティブ」と、ネットを「善」というあちら側におく典型的な「テクノ・ユートピア論」です。

 「テクノ・ユートピア論」とはデジタル技術への盲目的な礼賛で、性差も能力差も、個人の資質も、政府も国境もすべてをデジタルテクノロジーが克服してくれるという、これまた「珍説」です。ダナはむしろ「ネット」をツールとして割り切り、すでに存在している道具に対しての、共存のためのルール作りを提唱しており、そこには冷徹でネガティブな社会の現実も含まれています。

 ネット界隈から世に出たものらは、珍説を土台に珍説を立てる阿呆が掃いて捨てるほどいます。

 もちろん、著者と正反対の結論に辿り着くことも貴重な読書体験です。私が半藤一利氏の語り下ろしを読んで「左翼」と直感したように、佐高信に触れ「下品」と吐き捨てたように、著者の導き出す結論に必ずしも同意する必要はありません。

 しかし、宇野常寛は「166人に及ぶティーンとその親を中心としたインタビューを引用」と先の書評で紹介しますが、「はじめに」では「166回」と掲載されています。

 これは些末な誤字と見逃しても、「はじめに」以外のページをめくれば、親子の話し以上に、様々な専門家の意見が引用されており、また回数を数えてはいませんが、収録されているインタビューは「子ども(ティーン)」が圧倒的多数です。

 まるで

「“はじめに”を読んだだけで書いた書評」

 ですが、思想信条、読解力はそれぞれですが、一般的にそれを書評と語るのは詐欺です。

 先ほど、アマゾンの本書の紹介を見たら、

「166人のインタビューからソーシャルメディア利用の実態を読み解くもの」

 となっていたので、こちらを参考にしたのかも知れませんが、これなら「パクリ」であり、宇野常寛の持ち味ならば仕方がありませんが、いずれにせよ、読売新聞の校閲のレベルを知ることができます。

デジタルネイティブ
 パソコンは当然として、最新のテレビのボタンの多さは、学習しなければ使いこなすことはできません。すなわちデジタルネイティブなど存在しません。

 すると「スマホやタブレットなら直感的に使える」や「いまどきは幼児でも使っている」と反論するかもしれません。

 フジテレビ『とくダネ!』でコメンテーターを務める、石戸奈々子慶応大准教授は

「絵本やテレビに対して、スワイプやタップのような動作をする子供が増えている」

 と読売新聞で報告します。

 これをもってデジタルネイティブとは片腹痛い話しです。

 スワイプやタップなど、スマホやタブレットの操作方法は

「バカでも使える」

 を追究したもので、デジタルネイティブなる新人類が、特殊能力を獲得して操作しているのではありません。

 これを昭和時代で例えるなら、

「電卓を自在に操る天才計算少年現る」

 と同じです。あるいは補助輪付きの自転車にのった我が子を見て、

「バランス感覚があるから倒れない」

 と威張ってみせる、親バカというよりバカです。

 誰にでも操作できるツールを与えて、それができるのは開発者側の成果であり、デジタルネイティブによるものではないのです。

 石戸奈々子氏の話が事実であるなら、むしろスマホやタブレットに子育てを丸投げしている親の存在が濃厚で、そこに次世代の災厄が眠っていることに気がつくべきですが、他人の子どもですし、スワイプやタップをする幼児に危機感を覚えず、慶事と捉える連中の子どもがどうなろうと知ったことではありませんので放置しておきます。

 むしろ、デジタル機器の操作においての「劣化」は、この10年ほどで進んでいるように感じます。

 教育現場におけるIT教育(ICT教育)は、「IT」を「イット」と発言したとされる森喜朗政権時代にはじまり、そこから数えればすでに15年を経ていますが、ワープロソフトを使えない若者は、増加の一途を辿っている、とは、ある教育関係を取材した編集者からの密告です。

 体感値に過ぎませんが、20世紀の終わり頃、学生も含めた若者は、購入したパソコンにバンドル(付属)されたワープロソフトを、積極的に操作していたものです。

 ワープロソフトの段組を理解できずに、

「行頭が揃えやすいから」

 という理由で、「エクセル」に代表される表計算ソフトを覚えたものも少なくありません。

 それが「最先端」だったからかもしれません。あるいは、それぐらいしか

「高価なパソコンを役立てる方法」

 がなかったからというのが実態でしょう。すでにデフレは始まっていたとは言え、十数万円はくだらなかったパソコンを買うには大義名分が必要で、

「ネットでアイコラ画像が見たい」

 だけで家庭内決済が降りることは不可能だったからです。

 ところがガラケーという通信機能付き小型パソコンの登場で、若者を取り巻く状況は一変します。大人の顔色をうかがうことなく、無意味な時間をサイバー空間で過ごせるようになったからです。

 電子メールや「プロフ」でコミュニケーションをとり始めた若者は、パソコンから離れ、新入社員が報告書を「(ケータイの)メールでいいっすか?」と言い始めます。

 ワープロ専用機からパソコンになったぐらいの変化はありますが、若者にとってのスマホはガラケーの高機能版に過ぎません。

『おばちゃんが跳ぶ』が『モンスターストライク』となり、「プロフ」が「LINE」になっただけのことです。

 その一方で、若者が「パソコン」に戻ることはありませんでした。卒論ですらスマホで入力し、仕上げをパソコンの得意な友人に頼んで体裁を整える大学生もいるといいます。

 両手が使えるパソコンとの作業効率の違いは明らかなのですが、パソコンが使えないのであれば、その学生におけるベストパフォーマンスはスマホやタブレットになりますし、それで事足りれば、卒論時の一時の苦労のためにパソコンを習得するインセンティブは希薄です。

 もちろん、これらは図表や文章など、「コピペ」をしないという前提ですが、「コピペ」へのインセンティブが高まることは言わずもがな。

 コピペを駆使するセンスをもって「デジタルネイティブ」というのなら多いに賛同します。

 かつての昭和時代、手書きの「丸写し」は労力のわりに、発覚時の叱責と侮蔑が激しく(卑怯が最大の侮蔑だった時代)、割の合わない行為でしたが、手軽なコピー&ペーストの一般化により、低下したモラル、これは知への敬意の低下を意味し、そうした若者の増加を持って「デジタルネイティブ」と揶揄するならばという意味です。

 もちろん、そんな若者ばかりではありません。いまでも悪戦苦闘しながら、と、いうよりブラインドタッチを習得する苦労よりも、知的好奇心が勝り、あっと言う間にキーボードを自在に操れる若者だって沢山います。

 そして彼らは苦労知らずではなく、知的好奇心が勝っているに過ぎず、それはいつの時代にも通じる若者の特徴で、デジタルが若者を変えたのではないのです。

 先に紹介したダナ・ボイドの本では、もっとも共感した指摘を要約します。

「いつの時代の若者も、大人のいない場所を求める」

 そりゃそうだ。

 高知県に住んでいた保育園時代は親に内緒で裏山を探検し、上京した小学生時代は、川縁の誰も来ず、浮浪者の住居となっていた公園や、近所の廃ビルにこもり、中高生になると、共働きで両親が不在がちの同級生宅に入り浸ったことを思いだすまでもありません。

 米国では「放課後」がないとダナは報告します。不審者、変質者など、米国の放課後には危険が一杯で、同時に過剰保護が定着したことで、未成年の「居場所」がサイバー空間だけになっているというのです。

 幸い日本には「放課後」があります。「JKお散歩」のような徒花もありますが、日本の若者がサイバー空間、すなわちネットに閉じこもるのは「希」。

 そう、若者は「スマホ中毒」というのも「珍説」なのです。いまのご時世でも「リア充(現実の生活が充実している)」は、スマホの奴隷になったりしません。

 友人がいて、バイトがあり、部活に励めば、サイバー空間に引きこもる物理的余裕がなく、そこに加えて日中、しっかりと身体を動かした若者は眠気の誘惑には勝てないもので、夜通しLINEに興じることは困難です。

 一方で、LINEから発生したトラブルや、昨年末もボーリング場の従業員に土下座させた写真を投稿したバカッターが発覚し「デジタルネイティブ」が大活躍。

 これは間違いなくスマホやタブレットが普及したから。だって

「バカでも使えるように」

 作っているのですから。すると

「デジタルネイティブがバカッターを生み出す」

 ということもできますが、もちろん「珍説」。

 若者の大半はバカッターなどしていませんから。こうした「珍説」はいたずらに「世代格差」を煽るだけ。人間は古代ローマのころから、本質においてそれほど変わってはおらず、「いまどき」の若者も、客観的な目で見れば、昭和とそれほど変わってはいません。

 変わったのは「いまどきの年寄り」です。いつまでも現場にしがみつき、不惑を越えても若者を気取るなどなど。

 メディアを席巻するネット論は「珍説」ばかり。あるいは「正論」はつまらないのかもしれません。本稿の立場は今年も変わらず、お届けする予定です。

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