被害者債権放棄論からみた少年法厳罰化議論の問題

 ネット用語では批判的に使われる「テンプレ的」なる表現。

 テンプレートとはひな形であり、そこに流し込む語句を変えれば意味が変わり、どちらかといえば作法とか「型」というもので、日本語にはもっと適切な「典型的」や「定型文」という言葉があります。

 それを使わないのは、批判の焦点を批判者本人が理解していないからなのでしょう。「曽野綾子コラム」において、プチ炎上した私のブログへの批判で「テンプレ的な区別と差別のすり替え」のようなものがありましたが、その定義こそテンプレ的。批判のための批判です。

 これについては「週刊文春」において曽野綾子氏本人が、

“私は作家として常に『区別』はしています。自分の立場、仕事のテーマなど、すべて区別から始まります。区別せずに文化も芸術も学問も成り立ちません。日本国家も日本人としての『自覚的・多角的』区別の下に成り立っています。(週刊文春2015年2月26日号・改行筆者)”

 と述べたことに同意します。当該コラムそのものへの賛否はともかく、他人との違いを自覚することは、今後の移民や外国人労働者の受け入れを巡る議論(なし崩しになっていますが)において重要で、人種、というより受け入れる対象国と対象者毎に、考え得る特殊事情(もちろん、その国では普通のこと)について、現実的に検討するには、彼と我を区別する視点が必要です。

 ところが、日頃、LGBTとか、格差社会を嘆いて見せたりする人、貧困に憤ってみせる人ほど、相手の主張に耳をかたむけず、侮蔑用語として「差別主義者」を使い、人格否定的攻撃する姿は、かつて男性社会の打倒のために、男性への復讐を掲げていた田嶋陽子氏のようで滑稽です。最近では「週刊文春」における能町みね子氏が良い味を出していました。

 差別主義者が相手なら差別しても良い。とは、差別が生まれる発想そのもので、実に「テンプレ的」です。

 私は差別主義者ではありませんが、差別主義者がいたからと攻撃することも折伏することもしませんが、親しくつき合うことはもっとしないだけで、彼らが差別する対象とも、無理に親しくもしませんが、波長が合えば酒を酌み交わすことに躊躇いはありません。

 冒頭から脱線しましたが「テンプレ的」と曖昧な言葉を使うことで、議論の本質から避けていることが実に多い・・・とは、日本人らしいとも言えるのですが。

 川崎の中学1年生 上村遼太君が惨殺された事件について、主犯と見られる容疑者が18才で、共犯者も17才であることから、少年法の改正と反対派は、それぞれ定型文にそった発言を披瀝しています。

 改正派は凶悪事件の増加を掲げ、選挙の投票年齢が18才に引き下げられるこのタイミングで議論すべきではないかと掲げますが、動機不明の奇怪な事件や、猟奇的な犯罪は体感値として増えていますが、少年犯罪そのものの件数は減っています。

 また、投票年齢についても、そもそも論で言えば、少年法で守らなければならない対象に、国政を左右する権利を与える方が、論理的に間違っているのではないでしょうか。

 憲法違反の疑いも濃い、自衛隊の配備に関する、与那国島の住民投票では「中学生」までが参加しました。与那国中学校のホームページにある「学校要覧」では、中学一年生が男子6名、女子7名とあるので、12〜13才も投票権を与えられたということです。

 投票権=少年法適用外。となるなら、12才から大人と同等の刑事罰を与えろということです。政治の都合により、先走りした投票年齢の引き下げにより、主客が転倒してしまった主張です。

 改正反対派の、残虐な犯罪が起きたから、すなわち少年法改正というのは論理的な発想ではない、とはその通り。

 一方で名古屋大学の女子学生(一年生)による、顔見知りの老婦人殺害事件は、

“少年は偉い。少年法マンセー!!”

 と本人がツイートしており、この事件ならば「少年法」を見直すに充分な理由が認められ、「週刊新潮」は顔写真付きで実名報道していました。ツイートを見る限り、本人は法の抜け穴に自覚的で、かつてのホリエモンや村上ファンドと同じです。

 日本の法律では刑期を終えれば、本人の罪はリセットされると、言われますが、これも「テンプレ」同様に語弊があると考えます。

 たしかに法律的には放免となりますが、その構図はむしろ、罪を追究し続ける社会コストからの断念であり、例えるなら金を貸した相手が破産したがために、強制的に債権放棄をさせられるようなものではないでしょうか。

 刑に服することは、ペナルティという一種の代物返済としても、元の債権と完全に釣り合うものではなく、被害者側は泣く泣く諦めさせられる要素を含んでいるということです。

 だからこそ、犯した罪が引き起こした社会的影響や、犯行当時の本人の言動は記録され、時に引用することで、「罪」は社会資本として集団の利益になっていく、であるがゆえに法治国家は私的制裁を認めず、被害者に涙をのませているのではないでしょうか。

 要するに、被害の完全回復はできないけど、社会全体で経験として共有することで、被害を繰り返さないようにしましょうね。ということ。

 そして量刑の軽重とは、債権放棄とのバランスだということです。これを便宜的に「被害者債権放棄論」とします。

 この視点に立つとき、堀江貴文氏をビジネス事案で担ぎ出す出版社や、対談に応じる有名人著名人の倫理観を疑います。

 ちなみに近著は政府産業競争力会議(民間)議員、国家戦略特別区域諮問会議の(有識者)議員を勤める竹中平蔵 パソナグループ会長との対談集。

 どっちもどっちで、売れると見込む出版社も、みな「商売」に過ぎないとはいえ、ブレーンの1人がこうであることは、安倍首相への疑念を払拭できない理由のひとつです。

 話を戻します。「厳罰化」という言葉もまた「テンプレ」的で、議論の本質をぼかしてしまいます。未成年による「犯罪」全般なのか、「殺人」への罪の軽重、あるいは「殺人の中身・方法」により軽重が変わるのかと、具体的な対象を定めての議論が必要だということです。

 ただし議論するのは多分「大人」で、そのとき「厳罰」にしたほうが「楽」というバイアスがかかっていることに注意が必要です。

 自分の子供だけでなく、近所の子供でも悪さをしたことへの制裁として「ゲンコツ」を喰らわせるとして、殴ったその手にも痛みがあり、小学校の高学年ともなれば「反撃」を喰らうリスクも踏まえなければなりません。

 ここにおける「ゲンコツ」は例えであり、「法治国家では私的制裁は認められていない」という建前論は脇に置きます。

 あるいは、実に現代的ですが、ゲンコツを喰らわせた子の親が、傷害事件だと警察に駆け込む法的リスクも見逃せません。

 つまり、一市民としての子供と相対したとき、大人は子供に講じる手段が事実上ないのです。「お説教」でも同じです。話せば分かる子供には、そもそもゲンコツは不用ですし、話して説得するために投じる時間とエネルギーは、我が子でも難しければ、他人の子供なら尚更です。

 ならば、凶悪事件を起こすような危険な子供は、一生、社会にでてこなければ良い、と思うのは自然な感情ですが、大人としての責任放棄とは言葉が過ぎるでしょうか。

 子供は少年法に守られています。注意した大人を殺しても、死刑になることは滅多にありません。また、失うものも多くありません。実際には輝いた青春の時間を失うことになるのですが、青春は振り返って気がつくもので、当事者にとっては退屈と無力の間で揺れ動く季節です。犯罪を目指すような少年少女にとっての青春など、捨てても惜しむものではありません。文字通りの後悔はしても。

 こうしたアンバランスが少年法の厳罰化を求める感情の下敷きになっているのではないでしょうか。乱暴な主張ですが「ゲンコツ」で解決できた(?)時代にはなかったように思うのです。むしろ、犯罪を犯した少年に同情的な声も多く耳にしたような気もします。もっとも触法少年の弁しかなければ、「死人に口なし」だということも留意しなければならないのですが。

 「いまどきの子供は(何を考えているのか)わからない」とはこれまたテンプレ的です。少なくとも四半世紀前、私がかろうじて未成年だった頃から言われていたことだからです。

 大人が子供の考えを、仮に理解はしても、同意できることは少ないもので、同意できないことも「わからない」と表現しているケースは少なくないからです。

 そして両者が対立するのは、古代ローマ時代から繰り返されていたことで、塩野七生の『ローマ人の物語』によれば、カエサル暗殺の一因は世代間対立です。

 アメリカでは少年法の厳罰化が導入されており、成否の評価は分かれていますが、先に述べたような日本の懸念が存在しないのは、正当防衛としての「射殺」が存在するからです。大人も子供関係なく。

 なにより現代アメリカでは、他人の子供を叱るどころか、ダナ・ボイドの『つながりっぱなしの日常を生きる』によれば、学校への送迎は親の日常に組み込まれ、学生のみでのショッピングセンターの利用は禁じられ、学生生活から「放課後」が消えているので、そもそもの接点がありません。

 ちなみに、いまの少年法はGHQの指導のもとに成立しており、日本が独立したときに、すぐにでも改正すべきでしたが、戦災孤児や貧しさからの犯罪も多く、見直す余裕が社会そのものになかったのでしょう。平成も四半世紀をとっくに過ぎたのですから、やはり議論が待たれるところです。

 少年法改正の議論において、凶悪事件に限定し、先の「被害者債権放棄論」に立つなら、罪の軽重の前に議論すべきは、

「更生は可能か」

 ではなく

「更生させる必要があるのか」

 というところにまで踏み込まなければなりません。会社で言えば、更生可能な「民事再生」や「会社更生法」で対応するのか、それとも「倒産」して、債務整理にあたるべきなのかということです。

 この議論が抜けたままの厳罰化を求める声とは、安全安心を求める大人の責任逃れであり、その反対は現実逃避というファンタジーです。

 更生の可能性については、美達大和 無期懲役囚の指摘が参考になります。

 美達大和受刑囚は、2件の殺人により無期囚として服役しており、仮釈放を拒否し、自主的に終身刑を課しています。『死刑絶対肯定論 無期懲役囚の主張』などの著書があります。

 彼は懲役囚は反省しないと言います。罪が確定すると、その罪で裁かれることがなくなるので、自由時間に仲間同士で「悪さ自慢」をするといい、凶悪犯の大半は、事件発覚を「運が悪かった」ぐらいにしか思わず、ましてや被害者に対して「そこにいたヤツが悪い。あいつがいなければ捕まらなかった」と逆恨みしているものまでいると言います。

 すべての受刑者が反省しない訳ではありませんが、反省するものは極めてマイノリティだそうです。

 比較的軽い犯罪や、情状酌量の余地がある殺人犯の少年に、更生の余地を認めることは不可能ではないでしょう。しかし、名大の女子大生や、佐世保の同級生殺害、遺体損壊事件のような、快楽殺人犯は果たして更生するでしょうか。

 議論の末に「それでも更生させるべきだ」となれば、具体的な方法を検討しなければなりません。会社の再建が、精神論では不可能なように、犯罪者の更生にも具体的なプログラムが必要です。

 ただ、未成年でなくても更生プログラムの不十分さは各所で指摘されており、だからそもそも論として「更生させる必要があるのか」と提起しているのは、社会モラルの維持のための費用対効果からでもあります。

 盲目的「更生ありき」とは、すなわち

「犯罪者が得をする社会」

 になるからです。犯罪者にとっては不本意でも、更生のために投じる費用や施設、人件費は犯罪者のために使われるという現実があり、加害者が一文無しなら、被害者も遺族も殺され損になってしまいます。

 実際には「犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律」により、幾ばくかの救済はされますが、それも税金を使って行われることです。

 先の美達大和受刑者は

「殺人被害者の人権は何をもっても永遠に回復されない。
 一方で加害者の人権ばかりが守られている(論旨要約)」

 と自戒も込めてこう指摘します。

 これに同意します。加害者の人権など2の次でなければなりません。第1は被害者とその家族の人権であり、第2は社会の安定であり、それを支える健全な一般市民の人権が優先されなければ、社会正義は実現されません。人権派が叫ぶ人権もまた「テンプレ的」で、彼らは加害者の人権ばかり大切にしたがります。

 それでは「不用」となったときにどうするか。これも専門家を中心として議論が必要ですが、短絡的に死刑にしろと言うことではなく、「被害者債権放棄論」で考えたとき、加害者の命をどう使うことが、放棄する債権の最小化へとつながるかという視点が必要ではないかということです。

 例えば個人賠償を解決策とするなら、受刑者が金を稼ぐための方法の検討が必要ですし、社会全体への賠償ならば、道路工事なり農作業なりの導入も検討に値します。

「テンプレ的」に「厳罰化」というレッテルで、思考停止すべきではありません。そして悲劇に意味を見つけるなら、議論の深化しかありません。

 上村遼太君が惨殺事件において、もう一つの「テンプレ」がありました。SNSによる容疑者のプロフィールの拡散です。

 事件直後から「主犯」の名前は拡散しており、父母に祖母、姉弟の写真まで披瀝されています。これに対して「名誉毀損にあたることもある」と、批判的な報道が当初からなされていました。

 名誉毀損と言えば、思い出したので記しておきますが、社民党機関誌「社会新報」の編集次長、田中稔氏が私を訴えると電話をかけてきてから1ヶ月以上経過しましたが、いまだに「内容証明」は届きません。前言撤回なら、恫喝に至った経緯をつまびらかにして欲しいものです。法治国家において「訴える」とは、それぐらいの重みがあるものではないでしょうか。小学生と「ダチョウ倶楽部」以外の日本国民においては。

 さて、犯人と思われる未成年の氏名と顔写真、その仲間をリツイートすることは「犯罪」でしょうか。そして「厳禁」でしょうか。

 根拠不明の情報拡散には否定的な立場です。ボーリング場での「土下座事件」や、コンビニでの「恐喝事件」のように、そのままズバリならばともかく、真贋不明な情報の拡散には抑制的であるべきだと考えます。確かに名誉毀損となるかもしれません。名誉毀損は事実であっても成立するからです。

 しかし「親」として情報に接すれば立場が変わります。

 人の首を落とそうとして殺害した犯人が、隣にいるかもしれないのです。我が子と、その友人達に、危険を知って欲しいと願う親心を止められはしません。

 また、地域住民に情報が拡散することは、地域住民の身の安全へと繋がる可能性が高く、犯人への抑止力になることも期待できます。

 追い詰められた犯人が、逆上して通り魔になるリスクも否定できませんが、犯人が住んでいると思われる地域への立ち入りを自制すれば、ある程度の危険は避けることができます。

 加害者の家族まで、ネット上に晒すことは、完全にアウトではありますが、家族の中に共犯者がいるかもしれないという恐怖心を持つことは理解できます。

 まして少年事件、という噂でした。ならば、その親姉弟まで「普通じゃない(一般常識が無い)」のではない警戒するのが市民感覚です。

 だから今回の事件に関して、「拡散」をテンプレ的に否定できないのです。

 そして子ども達を守るという視点に立てば、わずかながら朗報もありました。

 チャットアプリ「LINE」が、警察の要請に応じて通話記録(交信記録)を提供したことです。つまり、LINE上でのやり取りは、すべて記録されており、端末レベルで利益を消去しても、「証拠」は残っているということ。

 なぜ朗報かと言えば、LINEを利用したイジメや犯罪教唆などは、警察が事件性を認め、捜査令状を取れば「可視化」できるということです。

 報道ではサラッと流されていますが、事件発覚直後から「LINE」と固有名詞をださないだけで、事実はしっかり報じられています。

 「テンプレ的」とは思考停止といっても良いでしょう。思考停止は実はとても楽なのです。しかし、そのとき、ひとつの悲劇は、その他の事案と溶け合い、無意味になるとは言葉が過ぎるでしょうか。

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