歴史に鑑みる安倍首相の経済政策

 日経新聞は企業の広報紙の側面が強いのですが、企業から離れると、的を射た記事が掲載されるのは、経済誌らしく、それを裏付ける「数字」に反応するからなのかも知れません。

 月曜日(2015年10月12日)の朝刊、スポーツ面で、ラグビー日本代表が、最終戦を前に決勝トーナメント進出を阻まれた理由を解説し、勝ち数で並ぶスコットランドと日本を分けた理由を

“伝統国を優遇する国際統一団体の姿勢にもある”

 と指摘します。サッカーにおける得失点差と、ラグビー特有のボーナスポイントを紹介し、さらには「日程」という数字に着目します。

 ラグビーには「ティア(層)1」と呼ばれる伝統10カ国には、有利な日程が組まれるというのです。試合間隔が中3〜4日と過酷になる場合、「ティア1」の国は、勝利が約束されたような弱小国と組み合わせることで、体力的な不利をカバーするというのです。

 しかも、その「区分」についての明確な基準はなく、戦績で序列が決まる世界ランキングとは関係がないようです。

“国際統括団体ワールドラグビーは貴族社会のような階級制で各国を区別している”

 という表現に記者(谷口誠)の気持を見つけます。それは記事の結びに現れます。

《ティア1の筆頭格・南アを倒した日本の金星は、旧秩序に固執する“支配者階級”を脅かす革命でもあった》

 白人による植民地支配を諦念していたアジア諸国に、日露戦争、日本海海戦で、白人の大国「ロシア」を完全撃破による大勝利が与えた希望を想起せずにはいられません。

 記者の思いを忖度し、勝手に補足するなら、労働者階級=庶民のスポーツであるサッカーには「公平性」を与え、要求しながら、支配者階級のスポーツであるラグビーには「特権」を残し続ける。これぞ「白人」のやり口だと。

 肌の色による区分というか、性格判断が愚かなこととは認めながらも、支配者階級にいまだ君臨し続けている、そう思い続けている彼らのメンタリティは変わらず、それを称賛する時代ではなくなりましたが、しかしそれもまた「歴史」であるということです。

 つまり、いまだに世界を支配していると信じている白人はいて、そして一部においてはリアルであり、ラグビーのワールドカップがその一端を開いて見せたということです。

 日本人は、自分たちが公正や公平を愛して信じ、至らぬことを自覚したならば恥じる心を持つものが多数派で、さらには世界の人も同じだと信じている、愛すべきマヌケなお人好しです。

 日本、そして日本人がその愛すべき民族で居続けて欲しいと願いがらも、それが通じるのは日本国内だけだと、日本人は徐々に気がつき始めている気がします。

 それを「おバカ左翼」は「右傾化」と呼びます。理解を深めるために、解釈を加えれば、世界中の国々は、それぞれの文化的背景と国益という都合を軸に動いており、それがグローバルスタンダードで、日本が日本の国益を考え、自国の歴史に敏感に取り組むのは至極当然だと気づいた国民の増加です。

 そんなラグビー日本代表の躍進とともに、飛び込んできたニュースが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、中国が登録申請していた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録したというもの。

 実に滑稽、というより興味深い。

 早速、左傾斜も明らかなハフィントンポスト日本版は管官房長官のコメントを紹介する記事で「アウシュビッツ」の写真を掲載するなど、印象操作に余念がありません。

 日本の悲劇であり喜劇は、国内に反日勢力を飼っていて、それがマスコミにおいて一定の人脈と影響力をもっていることです。源泉を辿れば、占領政策=GHQに辿り着くこともまた、徐々に知られつつあることは良いことです。以前は、この手の話題をしただけで、頭の横に人差し指おしつけ、クルクル廻されたものですから。

 そして、同時に反日勢力の活躍が、既存マスコミの信用度を損ね、彼らの存在価値を無くしつつあります。これについては、近日、別の記事で発表できるかもしれないので、ひとまず置きます。

 さて、南京大虐殺とやら。

 支那事変、すなわち日中戦争の初期に、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際におきた死傷事件の中国、正しくは中華人民共和国(中共、以下わかりやすく中国)側の主張で、日本ではせいぜい「南京事件」。

 中国側は30万人以上が虐殺されたと主張し、それをユネスコが認めたという形になります。なお、当時の南京市の人口は20万人あまりとされ、どこからか10万人をわざわざ強制連行してきて逆説しない限り実現しない数字です。

 これまたハフィントンポストと同じ構図で、虐殺肯定の急先鋒は日本人であり朝日新聞です。

 当時、エース記者だった本多勝一氏による『中国の旅』で「大虐殺」は初めて紹介され、現地に1985年に建立された「南京大虐殺記念館」には、本多勝一氏が英雄のように紹介されています。いわば、中共の捏造によるプロパガンダを、せっせと紹介していたのが本多勝一氏であり朝日新聞で、本多氏は週刊文春紙上での、藤岡信勝氏との討論で、

「中国の証言を紹介しただけだ」

 と取材からの報告でないことを告白して、悪びれもしません。

 今回、ここの議論は避けますが、「ウィキペディア」で紹介されている「論争」で、否定派は、武器弾薬の浪費にも繋がる大虐殺に合理性はないとします。私はこれに一票。

 対して、肯定派は「竹やりや素手でも可能」としますが、殴り合いをしたことがない青びょうたんのタワゴトか、少年ジャンプの読み過ぎです。

 突発的に振るわれる暴力で、人が亡くなることはありますが、身構えている相手を、それも殺されると自覚している相手は文字通り「必死」の抵抗をし、その上で殺すことは簡単なことではありません。なにより、素手で殴れば手が痛く、手の骨は実に骨折しやすいことを知らないのでしょう。

 それはともかく、「虐殺」とされて挙げられる証言が、ここで紹介するのも憚られる「残虐」なものです。

 そこであえて「マイルド」に紹介します。

“婦女子は見つかれば強姦され殺され、強制連行に逆らった労働者は腹を割られ、心臓と肝臓を抜き出し茹でて食べた。青年をひとかたまりにして手足を結び焼き殺す。”

 などなど。これでもマイルドです。胸くそ悪いので読んでいませんが、先の本多勝一氏も著書の中で紹介しているようです。

 その他にもこんなものも。

“女性を襲いして腹を割いて殺害。襲った上、陰部に鉄棒を刺し殺す”

 これらの悪行を日本の歴史に見つけることは困難です。

 突然、日本人は残虐性を身につけ、悪行に走ったということでしょうか。それはまるで

「突然、ナチスが生まれて、ナチスが悪さをしただけで、オイラたちドイツ人はむしろ犠牲者なんじゃね?」

 と開き直るドイツ人ならばともかく、父祖の教えを守らんとする、ある意味において日本人を特徴付ける「継続性」から説明がつきません。

 戦場にいけば血湧き肉躍り、獣性が先に立ち、人は変わるもの・・・ならば、日本の戦国時代、あるいは百姓一揆や焼き討ちに、この手の話題を見つけないのは不思議です。

 一方、中国の歴史を数ページ開けば、この手の話題に事欠きません。というより、南京事件の数ヶ月前におきた「通州事件」では、先に「マイルド」に紹介した悪逆非道の虐殺が、中国人の手により実現しており、同胞である日本人居留民380名中、260名が虐殺されています。

 この事件はもちろん、国内でも報じられ、打倒中国へと傾斜させた面は否定できないでしょうが、ポイントは「南京事件」における虐殺証言との驚くべき類似性です。そして通州事件における被害の写真や程度は、詳細に記録されていますが、南京事件にそれはありません。

 中国側が「証拠」とするものはありますが、否定されているものが多数あり、「証拠」としての資質が問われています。

 さて、日本史とされるもののなかで、唐突に現れた「残虐性」は、このあと2回ほど登場します。

 ひとつが関東大震災における「朝鮮人虐殺」があったとする説で、もうひとつがご存知「従軍慰安婦」です。

 どちらでも「マイルド」に表現した虐殺や虐待が紹介されます。その殺し方、残虐性はカーボンコピーではなく、一字一句揃ったまるで「コピペ」です。朝日新聞の影がちらつくことも添えておきます。

 さらに言えば、敗戦による「東京裁判」も絡めれば、米国のプロパガンダもちらちらと見えきます。南京事件が広く知れ渡って困るのは、おバカ左翼と朝日新聞、そして米国かも知れません。

 はてさて、歴史は民族を写す鏡です。例えば民主化なったはずの韓国では、大統領がその職を離れると逮捕されることは恒例行事となっていますが、しかし、彼の国の歴史を見るに珍しいことではなく、その歴史的親分である中国もまた同じです。だから、権力者は権力にしがみつき、敵対勢力を粛正します。

 オバマの米国が迷走するのも、大柄な幼児であるその歴史からみれば、それほど驚くことではありません。

 そして他国ばかりではなく、日本も同じ。虐殺の事実は受け入れがたいながらも、日本も歴史を繰り返します。

 長くなりましたが、ここまでが前置き。植民地支配や南京事件と、歴史に対峙するチャンスをラグビー日本代表が運んでくれました。

 長期的な歴史については、歴史家に委ねるとしても、少なくとも平成に入ってからの四半世紀ちょっとについては、いま、生きている我々に、当事者としての責任があります。

 今月1日は何の日だったでしょうか。都民の日ですが、そうではありません。

 昨年の解散総選挙により、自民党の圧勝、安倍政権への信任がなければ、

「消費税率が10%になっていた日」

 です。どじょう、コホン、民主党、野田佳彦首相時代の取り決めどおりなら、平成27年10月1日に、消費税は10%へとあげられることになっていたことを覚えているでしょうか。

 はてさて、昨年末、解散総選挙をせずに、増税延期をしていたなら、安保法制を巡る国会の乱闘騒動レベルで騒乱はないまでも、公約違反の大ブーイングで、安保法制どころではなかったことでしょう。

 あるいは自民党の勢いに陰りが見られる選挙結果により、安倍政権にノーが突きつけられていたなら、増税は予定通り行われていたことでしょう。

 想像してみてください。

「ギリシャショック & チャイナショック & フォルクスワーゲンショック」

 というトリプル不安に、ついでにというより、その後のリスクオフを鮮明にした、米国利上げ様子見不安もあり、本稿執筆現在の日経平均株価は前日比347円安で、18000円を割り込み、さらに先ほど下げ幅は400円を超え、昨日と合わせれば先週までの反発分を帳消しにしています。

 景気指標は株価だけではありませんが、チャイナショックとフォルクスワーゲンショックによる停滞感は避けがたく、本来的にはここまで日経平均株価が下げる理由がないなかで、下げ幅を拡大し、この数行の間にさらに下げ幅拡大して379円安となっています。

 こんな状況下で消費増税が行われていたとしたら・・・・。

 1997年、2014年の消費増税という歴史から学んだことは景気の失速です。

 万端の準備をし、黒田がバズーカを放ちながらも、2014年の消費増税による景気の減退を、認めないのは財務省だけです。

 ならば結論は明らかです。増税延期は正しかったのです。

 いくらなんでも、チャイナショックやフォルクスワーゲンの不正を財務省が見抜けなかったことを責めるつもりはありませんが、仮に「予定通り」に税率を上げていたら、日本経済は壊滅級の危機に瀕していたのではないでしょうか。

 それも、世界で日本だけ。
 まるで20年続いたデフレのように。

 結果論ながら、安倍首相の、自民党の増税延期の決断が日本を経済危機から救ったといえます。

 そして歴史の教訓とは「増税は経済を冷やす」という当たり前。

 ならば、完全に景気回復局面に入るまで、さらなる増税は見送るのが「歴史に学ぶ」ということではないでしょうか。

 財政再建はどうするんだ! という声もありますが、インフレになれば借金が目減りすることは、団塊世代における「マイホームブーム」が証明しています。

 年金はどうする? これも簡単。いま、年金の運用は「株式」にシフトしています。インフレになれば理論上、かならず株価は上がります。また、新興市場などで活躍する企業の株を購入していれば、そこからの配当も期待できます。

 これらは皆、希望的観測。

 ではありますが、いまの日本に「デフレ」に戻る選択肢はないことだけは誰もが認めることでしょう。これはその20年の歴史からの教訓です。

 そして安倍政権の経済運営について、いくつも疑問符を持つ身ながらも、増税延期の決断は、彼にしかできなかったであろうことを考えれば、この一点だけは合格点を与えて、たまには褒めておきます。

 安倍さん、ナイス。と。

 そう、歴史に学ぶとは反省だけではありません。上手くいったことを検証することも必要なのです。妙手ばかりはあまりありませんが、最悪の愚手を打たないだけでホッとするのは、民主党政権から学んだ歴史の教訓です。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください