月刊 WiLL2016年6月号「皇太子様への諌言」

 さて、事実上の新創刊の「WiLL」。

 加地伸行、日下公人、渡辺昇一、各先生に、曽野綾子ちゃん(失礼承知ですがその文体に愛しさを感じ)は引き続き、執筆陣も見覚えがあり、ある種の継続性は感じますが、やはり編集長が、編集者が変われば、ガラッとカラーが変わるものです。

 それは上品になったWiLL。

 インタビュー記事ながら髙山眞知子江戸川大学名誉教授の

“トランプはバカじゃない”

 はなるほど、現地に根を生やしていたからこそ語れるもので、支持層の違いを脇に置けば、トランプの支持層とは

“田母神俊雄に集まった支持”

 だと分かります。ネトウヨだけではなく、保守から右派まで、田母神氏に近づいた人は数知れず、ただし、両者を分けたのはビジネス経験でしょう。

 一晩で文無しになるビジネスの世界と、世が世なら大将閣下とは言え、やはり宮仕えをベースにし、また実戦経験の無さは埋めがたいとは過言ではないでしょう。また、ビジネスはライバルを引きずり下ろすことや、仲間に連帯責任を負わせる技術も求められ、自己完結を目指す軍隊のみの経験では、さまざまなものが足りなかったと言えます。

 同じくトランプ現象を追う企画の増田悦佐氏の

“トランプがやり玉に挙げた民主党「金権政治」”

 は、アメリカ政界の「どす黒い病巣」を確認します。

 最たるものは「刑務所の民営化」で、いまニューヨークでは、囚人一人の「宿泊費」は一泊4〜5万円で、血税を持って囚人を遇しており、それは厚遇ではなく刑務所運営企業による中間搾取で、民主党政権に近しい人物というより、ビル・クリントン、ヒラリー・クリントンの熱烈な応援者の懐を潤しています。

 ランド・ポール「国家を喰らう官僚たち」にも出てくる、何かと言えば難癖を付けて刑務所にぶち込もうとうする官僚の姿勢は、囚人を増やせば儲かる仕組みがあるからかも知れません。

 と、立林昭彦編集長を迎えて上品なWiLL。かと思っていたら、いささか認識を改めるべきか結論を留保したのが古谷経衡氏の連載。

 事実上の創刊直後でバタバタしているのならば、「寄稿」という形で様子を見て、読者の反応と、雑誌の編集方針を固めながら「連載」に切り換える、狡いようにも感じますが、読者を第一に思うなら、それもひとつの方法でありながら連載決定。

 まるで当選回数の浅いガソリーヌ山尾志桜里氏を政調会長に抜擢するほど、人材が払底した民進党のようです。

 というのも「お家騒動」における自社サイトでの釈明、「WiLL」側は、爆笑問題や村西とおるといった「エンタメ色」も問題視していたからです。古谷経衡氏の肩書きは芸人ではありませんが、果たして「切り捨てた著者」に見合う筆者かどうかには疑問が残ります。また、保守ならば良いという基準に照らしても、彼を保守と分類することに疑問があるからです。

 もちろん、完全な新雑誌ならばそれも編集方針ですが、「旧WiLL」からの引き続きの読者からすれば、違和感しか残らない人選です。そこから上品ではなく、上っ面という懸念が首をもたげます。

 古谷経衡氏については「若手保守論客」と各所に登場し始めた頃から、明らかな違和感を覚えていました。彼の得意とする言葉を借りるなら「微温的に」保守じゃないのです。文字通りのぬるっとした違和感とは、私は物心ついた頃にはコントロールできていたので、ほぼ記憶にないのですが、スキューバダイビング愛好家から伝え聞いたのは、おねしょをしたときの快感に似ているという、ウェットスーツの中での小用に近いでしょうか。ひたすらに括約筋に仕事をさせ我慢しなければならないほど不快ではなく、かといって喜んで読むほどの好みでもない。

 いずれにせよ、好みではないながらも、年下の人間が鉛筆一本で、頑張ろうとするのを揶揄するほど暇ではないので、微温的にスルーをしていたわけですが、昨年のSEALDsなる若者のトンチキ騒ぎ、もといらんちき騒ぎを称揚する古谷に馬脚を見つけます。

 そもそもSEALDsなる集団は、女子大生専門との看板に吸い寄せられて入ったキャバクラで、席に着いた女性が還暦を過ぎていたぐらい、実数として若者は少なく、企業活動なら異物混入というより、異物のなかから商品を探さなければならないほどの偽装集団です。

 そうした嘘をシレッと言えるのがパヨクの芸風ながら、このSELADsの若者の方が、ハロウィンで騒ぐ若者よりマシと、代表で高校時代の偏差値が28と噂される奥田愛基氏との対談企画に応じた古谷経衡くんの正体見たりネクラオタ。

 微温的に古谷はSEALDsと同類なのでしょう。

 産経新聞が主催する論壇サイト「iRONNA」に寄せた

ハロウィンパーティーで騒ぐよりもSEALDsのほうがマシ
http://ironna.jp/article/2276

 はネットで嘲笑の対象になっていたのも当然です。
 要旨はこう。

“ハロウィンとかSEALDsとか、ワイワイ仲間が集まっているの羨ましいよね。
 でもボクチンそこに参加できないし、呼ばれてもいないし、だから参加したくもない。
 へらへら楽しそーに、もとい笑ってんじゃねーよ。
 その点、仲間とワイワイしていても、笑っていないだけSEALDsのほうがマシじゃん。
 いいなー。ボクチンの時代にSEALDsがあったらなー。”

 バカですね。笑顔の有無を判断基準のひとつに据えていますが、そこは「iRONNA」とはいえ産経新聞。差し挟んだ写真は

「笑顔で集うSEALDs」

 です。古谷が判断しているのは、ラップ調のシュプレヒコールという、いわば

「バカでもできる抗議」

 で、これはリズム問わず、同じメッセージを一定のリズムで繰り返すことで生まれる昂揚感は、御輿担ぎの「セイヤっセイヤっ!」と同じで、文言が「安倍はヤメロ」と攻撃的なものなら、知的水準が低ければ低いほど、言葉に感情が支配され、笑顔がなくなるものです。

 「妙法蓮華経」を繰り返す法華経や、「南無阿弥陀仏」を繰り返す阿弥陀経を唱えていたならば、もっと荘厳でいて穏やかな表情になったことでしょう。SELADsなる集団のもつ特徴ではなく、「ただの集団心理」に過ぎません。ちなみに知的水準が高ければ、行為そのもの、かけ声に疑問を感じるものがでてきます。そして国会前で大声を張り上げる無意味さに気がつきますし、民主主義の意味を教科書からしっかりと学んでいることでしょう。

 古谷経衡氏に圧倒的に足りないのは、人生経験と人間への愛情です。人一倍、人間に関心を持ち、愛されたいと思いながら、その方法が分からないのではないでしょうか。想像に過ぎませんが、いじめられっ子だったのかもしれません。そして虐められた体験に折り合いを付けていないことが、独特の視点に繋がっているのでしょう。それを個性と呼ぶのか。未熟ととるかは読者次第。

 彼に微温的に感じたもの正体は、高校時代の後輩らで、誇りを持って営む生徒会活動ながらも、一般生徒からは相手どころか存在すら知られていない、中流家庭の集う中堅高校の切ない青春の一コマで、当時は「オタク」なる言葉は、一部のアニメ専門誌で見かける程度に過ぎないながら、いまなら間違いなくそう呼ばれたであろう集団や、それにすら所属できないスクールカーストならば、最下層のちょい上、つまりはイジメの対象にすらならない存在を忘れられた生徒達、に近いものです。

 私自身はまったく別の階層というより、群れからはぐれた野良犬でしたが、洒落のレベル出馬した生徒会選挙で生徒会長に選ばれたことから彼らと接点ができ、野良犬とはいえ、やはり犬は愛情深い生き物で、敵には躊躇なく噛みつき、上級生と乱闘を演じることもしばしばながらも、後輩はなんやかやと可愛がっていたと自負しており、その歪んだ愛情表現を不憫に見ていたものです。

 ちなみに当時、私が歩くとキャーキャーと嬌声があがるほど、女性との注目を集めていましたが、「モテ」とは若干違います。この点、オタク気質の後輩らと気脈が通じ、それを古谷経衡に重ねてしまうわけですが、当時のは私は、人の愛情を信じられず、それが「モテ」を遠ざけていました。

 女性なら同意いただけることでしょうが、自分の愛情が疑われるほど切ないことはありません。ま、客観的にはモテましたが。

 古谷常衡くんがそうかは存じませんし、興味もありませんが、ハロウィンのどんちゃん騒ぎに憧れながらも参加できず、参加した同年輩を小馬鹿にすることで、精神的な優位に立とうとするその人間の小ささが、かわいがっていた後輩によく似ており、勝手にこの後輩に重ねての「しっかりせいよ」というつぶやくのです。まったくもって余計なお世話ですが。

 そう思えば愛しさもわずかばかり湧き、手にした彼の著書が「左翼も右翼も嘘ばかり」。朝日新聞系でも紹介されたと同書で彼が自慢していましたが、何のことはない

「若者は右傾化していない」

 という、額に汗して常識と接する日常で戦う者なら、誰でも知っている当たり前の結論を、選挙結果をもって証明したんだエッヘンと自慢し、それを見つけた朝日新聞が、

「保守系若手論客のネトウヨが右傾化していないって! よし、こいつを保守系の若者代表として祭り上げちゃえ!」

 と、それは単に先祖返りにしたに過ぎない小林よしのり氏を、保守派の代表であるかのように紙面に登場させ、安倍首相の悪口を語らせる、いつもの朝日新聞というか、パヨク左翼界隈のお得意な手法で、構造的には「内ゲバ」と同じです。身内(と思っている人物)に攻撃するとショックでかくね? といういやらしさ。

 小林よしのり氏の各論の中には、強く同意するものもありますが、意見の異なる者を執拗に論破し、完全排除を目指す姿は左翼の「総括」や「自己批判せよ」を重ねずにはいられず、朝日新聞との高い親和性を確認します。

 古谷経衡氏に話を戻せば、強烈な自己承認欲求と自己顕示欲の間で揺れ動くナイーブな中学生。とは三十路を過ぎた「男」に対して失礼ながらも、そう感じてしまうのです。弱さというか卑屈さというか、ハロウィンにしてもデモにしても、20代の前半だから許される若さ故に許される「バカ」というものは確かにあり、しかしながらこれを経験したかしないかの差は、後の人生に強く影響するのは、机上の空論と青春への憧憬の同居で、俗に「中二病」などとも呼ばれるものですが、小説家や漫画家なら強烈な武器になるものが、評論家やジャーナリストにおいては結論を歪めるバイアスとなります。

 繰り返しになりますが、それを持ち味とするもひとつの価値観。ただし、それは朝日新聞や朝日文化人が得意とする手法で、新制「WiLL」の、しかも連載とするには、ましてや大人の読み物として、しかも常設展示の連載としては、いささか「ネクラ」過ぎる気がしてなりません。

 あ、新旧WiLLで連載を持つ、日下公人さんの「ふるさと納税」の発案者としての再提案は必読です。

月刊 WiLL2016年6月号「皇太子様への諌言」
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=B01BVS052M

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